浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

2006年12月
藤沢政策研究 
 
執筆原稿から

地方分権と自治体のあり方

はじめに  
  宮城県知事を3期12年務めている間に感じたことは、県の職員は意欲も能力も持っているのに、それが十分に生かされていないということであった。正確には、「県の職員の大部分は」と書かなければならないだろう。定年まで可もなく不可もなく、あくせく働くことなく、給料だけもらい続けることをもって満足している職員もいないことはないからである。それはそれとして、職員の能力も意欲も十全に生かされていないとすれば、今はやりの言葉で表現では、もったいないということになる。

 それは、藤沢市でも同様であろう。自治体職員は、世間の方が思うほどに、能力なし、やる気なしではないぞと切歯扼腕する場面もあると思う。全国の自治体の中には、ぱっとしない職員を多く抱えたところはあるとしても、藤沢市の職員は立派なものだと自負していることだろう。

 そのとおりである。意欲も能力もあるのに、それが十全に発揮されていないことの理由の一つに、地方分権が十分に進んでいないことがある。そうだとすれば、日本全体では、なんと膨大な無駄をしているものかと思う。この稿では、主としてこのことについて書く。 それに加えて、見落としてはならないのは、藤沢市民の参加である。慶應大学SFCで政治学、地方自治を教えているが、そこで私が強調するのは、「ほんものの民主主義」をいかにして根づかせるかということである。ほんものの民主主義が育つのは、地方自治の場面においてであり、そこが「民主主義の学校」としての役割を果たすことを通じて、日本全体の民主主義が深まっていく。そんなふうに考えるからこそ、自治体レベルで住民の参加を意識的に促していくことを強調している。

  藤沢市の職員が立派になることと、藤沢市民が自治体行政に参加していくこととは、密接な関係がある。端的に言えば、藤沢市の行政が良くなる、職員が立派になるのは、住民の参加があってのことである。そんなことも、この稿では明らかにしていきたい。

1 自治体職員の政策能力
 
職員のことから始めれば、宮城県知事時代、県庁職員の多くは思考停止症候群にかかっていると思えることがあった。職員には、新しい政策を必死に考えるという活動もあったが、時間の大部分は、「こなし仕事」に取られてしまう。言わずと知れた、補助金をもらってやる仕事の執行である。県の場合は、国からの補助金を市町村に流すという仕事も加わる。

  補助金には「補助金交付要綱」がつきものである。「交付要綱に縛られて、自由に事業執行ができない」と嘆く声もあるが、交付要綱は事業執行マニュアルのようなものであるから、深く考えをめぐらさなくともマニュアルにしたがってやれば、大過なく仕事は進む。その意味では、職員は楽なのである。考えなくて済むということが続くとかかるのが、思考停止症候群である。

  仕事のやり方だけではない。そもそも補助対象事業になっている仕事には、事業目的がある。その事業目的を達成するのには、補助対象事業のような仕事ではなくて、別な形での事業をするという選択もあるはずであるが、そんな検討は一顧だにされない。なぜなら、せっかく国から補助金が出るのに、なんで県費又は市費だけで執行するような事業を選ぶ必要があるのかと上司に質されたら、答えに窮するからである。自分たちで必死に新規事業を組み立てるという動機づけは、この段階で摘み取られてしまう。

  補助金づきの事業についての問題は、これにとどまらない。補助金づきの事業は、事業執行に他人の金が使えるのだから、「やらなきゃ損」という意識が働く。県政、市政の事業全体での優先順位づけの判断において、目が曇らされてしまう要因である。A事業の補助金は辞退するから、B事業の補助金を増やして欲しいという話は霞が関には通らない。A事業とB事業は、所管官庁が違う。そんなトレードオフは成り立つはずがない。厳しい予算運営の自治体としては、実施する事業について「あれか、これか」という判断が重要なのに、補助金づきの事業になると「あれも、これも」になってしまう。

  「地方分権が十分に進んでいない。補助金行政の弊害も残っている。だから、自治体職員が思考停止になってしまうのは仕方がない」と開き直るわけにはいかない。現在の状況の中でも、自治体職員は政策提案型を目指すべきである。藤沢市は政策官庁たれということにも通じる。そもそも、この「藤沢政策研究」の創刊もこういった意図に沿ったものだろう。宮城県でも、私の知事時代に「みやぎ政策の風」という政策研究誌を発刊した。 自治体全体として、政策提言する職員や組織を称揚する雰囲気を作っておくことも必要である。庁内に論争を巻き起こす火種を巻いて、前例踏襲、沈黙職員ではなくて、議論大好き、前例破りの職員を大事にする論争文化を育てなければならない。そんな文化が形になったものの一つが、「プロジェクトM」であった。

  Mは宮城県の「み」の頭文字であるが、組織としての縦割り横断的な新規事業を職員集団に提案させて、その中の最優秀作品には予算も組織も新設して、事業の執行を図るというものである。第一回の「プロジェクトM」には、共生型グループホームの提案が選ばれ、実際に、宮城県白石市に「共生型グループホームながさか」が平成16年1月にできあがった。認知症の高齢者5人、知的障害者3人、重度重複障害者1人が一緒に住む形のグループホームは、我が国の先端を行く試みとして、全国からの視察がいまだに絶えない。この事業の企画・運営のために、新たに組織を立ち上げた。なによりも、提案した職員たちが大きな誇りと自負を持つことができたことが、最大の成果かもしれない。

  財政上の地方分権がさらに進めば、県の独自の事業が、各県ごとにどんどん生まれてくることになろう。ある種の善政競争も起こる。「いいことは、只で真似っこしよう」という風潮も生まれるだろう。それが自治体としての活気につながり、職員は政策づくりに邁進することになる。

2  三位一体改革の意義
その意味では、地方自治体にとって、三位一体改革の推進はなによりも大事なことなのだが、ここまでのところ、この改革が掛け声倒れ、単なる数字合わせに留まった状態にあることは、まことに嘆かわしい。三位一体改革の議論の中で最も論議を呼び、象徴的な問題にもなった義務教育国庫負担の廃止についてであるが、文部科学省の反論は実態的にも理論的にも合理性を欠いたものと言わざるを得ない。

  義務教育の実施の責任は市町村にある。市町村の自治事務であることをまず確認する必要がある。「教育の機会均等」を旗印に、国としても義務教育の実施に責任を負うのはわかる。しかし、そのことは、例えば、「公立義務教育諸学校の学級編成及び教職員定数の標準に関する法律」(標準法)で十分に担保されている。法律によって、義務教育の学級数や教職員定数は厳格に決められている。こういった法制度があれば、機会均等、全国的な教育水準の維持が実現できる。それなのに、さらにその上に、教職員給与費の二分の一を国が負担するという仕組みが必要なのだろうか。

  文部科学省は、国庫負担をなくせば、例えば、宮城県は義務教育に対して使う費用を削減するおそれありと主張する。だから国庫負担制度はなくせないとおっしゃる。そうだろうか。仮に国庫負担制度がなくなったとして、その時に新聞社なりが調査する「義務教育費の水準についての都道府県ランキング」で、宮城県が46位に大きく引き離された最下位になったとしたらどうだろう。知事としては「持たない」。なぜ持たないかと言えば、県民の厳しい批判に耐えられないと思うからである。

  この場面で住民が登場する。義務教育の(予算の)水準が一定程度を保っているのは、国が費用の半分を負担しているからなのか、それともこの問題への住民の高い関心が知事の目にも明らかになっているからなのか。知事をやっていた実感とすれば、当然、後者である。宮城県の県立高校の予算の水準が一定程度を保っているのは、隣県に負けたくないという個人的なプライドではなくて、負けたら県民が許さないだろうという認識からである。県立高校の運営について、国が負担している部分はない。にもかかわらず知事はがんばらざるを得ない。それは県民の目があるからである。

  義務教育はわかりやすい例だからここで取り上げた。それ以外の補助金づきの事業についても、その補助金があるから自治体は実施しているのではない。住民の目があるから、やめたりさぼったりしたら、住民が黙っていないことが認識できるからである。実は、この過程を通じてこそ、住民は「鍛えられる」。自分が住んでいる自治体で行われているある事業が、国の補助金があるから一定レベル以上で実施されていると住民が信じれば、その事業の確実な実施に住民は関心を持たなくなってしまう。

  仮に、補助金がなくなったことを契機に、ある事業をやめてしまったとする。又は、レベルを格段に下げたとする。住民は黙っているだろうか。黙っているということは、そもそもそんな事業の必要性は住民の間では強く意識されていなかったことになる。意識されていたのに住民が声を上げないのだとすれば、「もって瞑すべし」ということかもしれない。声を上げないほうが悪い。こういったことを通じて、住民は鍛えられるということになる。ほんものの民主主義が根づくきっかけということでもある。

  ここで、地方議会が登場してくる。「住民が声を上げる」といっても、現実にはむずかしい。通常は、身近な議員に陳情・要望をする。その声を議員が汲み上げて、議会の場で同僚議員と協力しつつ知事、市長を追及する。この点については、次項で改めて論じる。

3  地方議会の役割
  三位一体改革が進み、財源における地方分権の進展によって、地方議会の役割も変わってくる。今こそ地方議会の出番と議員諸兄は張り切らなければならない。慶應大学での「政治参加論」の授業における学生の反応を見ても、彼らの地方議会、地方議会議員への関心は極めて低い。選挙で投票することもあまりないという事実に、彼らの実態というよりは、地方議会の問題点を感じてしまう。

 藤沢市議会は、藤沢市長へのチェック機関という役割に甘んじていてはならない。もちろん、チェック機関としての役割すら果たしていない地方議会は大多数なのであるが、もう一歩進めることに積極的に取り組む必要がある。

 地方議会の役割として重視すべきは、条例提案を通じた政策への関与である。藤沢市議会において、実質的な内容を伴う条例で、議員提案で成立したものは何本あるだろうか。県議会レベルでも、宮城県議会がこの5年ほどの間で15本の議員提案条例を成立させたのが、際立って多いほうの部類に入るのであるから、他の県議会の状況は推して知るべしである。

 地方議会は、チェック機関である前に、唯一の立法機関である事実を見詰め直すべきである。さらに、三位一体改革で自治体が独自財源、裁量幅が広がった財源を持つことになれば、自治体独自の施策を打ち出す範囲は大いに広がる。その仕事を市長サイドの執行部にだけ任せておくことはない。地方議会も、予算編成過程に関わるべきであるというのが、私の自論である。もちろん、予算編成権は知事・市長という執行機関に専属したものである。議会は、予算案の承認に関わるのみである。しかし、実質的に予算編成に関わることは可能であるし、望ましくもある。財政厳しき折である。こういう施策を実施せよということだけでなく、この事業は廃止又は縮小してはどうかという議論を、議会が主導することもあっていい。

 条例提案、予算編成への関わり、いずれをとっても議員側において政策提案についての情報の収集と高い見識が必要となる。政策スタッフの必要性も高まってくるだろう。現在、議会事務局がやっていること以上の政策的な仕事は、いずれ必要となる。議会経費に限度があるとすれば、議員歳費や議員定数の縮減ということとの選択の場面も出てくるかもしれない。いずれにしても、政策提案あっての議会という本質をはずしてはならない。

 その際に、執行部側としてやるべきことを一点だけ申せば、情報の提供である。議員側から要求があった資料なりを隠さずドーンと示すことは有用であるが、情報の使い勝手にも留意しなければならない。情報はあるだけでは使えない。簡潔、わかりやすさもなければ、情報は使えない。むしろ、情報の提供を通じて、真の意味での議員との協力関係を打ち立てることも必要ではないか。

終わりに  
  地方自治体の活躍の場面は、格段に広がっていく。地方分権が進めば、自治体の行政の自由度は増す。その自由の中には、失敗する自由も含んでいる。だからこそ、失敗してはならないという緊張感が生まれる。地方分権が実現したら、自治体ごとの格差が広がるという論もあるが、それは真実であろう。だったら、格差をつけられないようにがんばるしかない。だからこそ、自治体職員も使命感を持って仕事に邁進することになる。これからは自治体相互の善政競争であり、政策で勝負の時代である。

 そういった過程を通じて、住民を自治体行政に巻き込んでいかなければならない。そのためのシステムと実践の場をどう用意していくかも、大事な点である。NPOのような団体で地域のための活動をしようという住民も増えていく。そういった団体をどのように支援していくかも、これからの課題である。

 いずれにしても、自治体の活躍の可能性は無限に開けている。そのことに意義を感じ、自負を持ちながら、藤沢市にも全国のモデルとしてがんばってもらいたいと期待するものである。



TOP][NEWS][日記][メルマガ][記事][連載][プロフィール][著作][夢ネットワーク][リンク

(c)浅野史郎・夢ネットワーク mailto:yumenet@asanoshiro.org