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9.11衆議院議員選挙結果

2005.9.13

 なんとも劇的な結果である。9.11衆議院議員選挙は、自民党が296議席、公明党の31議席と合わせると327議席という地滑り的な大勝となった。対する民主党は、113議席と、改選前の177議席から大きく減らした。

 選挙期間中、「小泉劇場」という言葉を、野党側が批判的な意味で使っていたが、実際は、小泉劇場が大いに観客を集め、興行的に大成功となったということだろう。民主党として、「岡田劇場」の舞台を用意できなかったということが、敗因ではないか。

 小泉劇場が出し物の面白さゆえに観客を集めて、選挙に対する関心を高めたということ以上の意味がある。小泉劇場は、観客を舞台に上げたようなものである。あなた方有権者こそが主役であるというメッセージとして受け取った人たちは、自分たちの選挙であると大いに燃えた。今まではそういう問いかけがなかったからこそ、こういう舞台を渇望していたとも言える。

 政策こそが決定的なものであるというメッセージも新鮮であった。これが新鮮に聞こえるというほど、これまでの国政選挙は、政策とは違う要素が結果を決めているかの如くであった。候補者のお人柄、自分との関係・しがらみ、利害団体への見返り、地元の発展への貢献度合いなどなどが、選挙必勝の条件と考えられていた。無党派と呼ばれる人たちは、そこに政治と選挙のうさんくささと「勝手にやれば」的な距離感を感じていたと言える。こういった人たちが、今回は色めきたった。政策で争われる選挙だって、待ってましたという受け止め方である。

 郵政民営化の是非はある程度論じられても、郵政民営化法案の問題点と意義を論じることができる有権者は希有である。そんなことはどうでもいいとは言わないが、ともかくも、政策が選挙の中心に据えられたことが明快であった。その象徴的やり方として、法案に反対した自民党議員を除名して、その選挙区に法案賛成派の候補者を自民党公認として送り込むという小泉流荒業があった。「刺客」といった物騒な形容がされ、そのことの是非のようなものが論じられたが、政治とは、国政選挙とはということを突き詰めれば、むしろ当たり前に近いことである。そんなことを、毎日新聞のインタヴューで答えたのが9月8日の紙面に掲載されている。今となっては、ここでの私の発言内容は今回の結果を予言するかのような意味合いもあり、ちょっぴり自画自賛している。

 ポイントはここにあったという気がする。候補者の資格を政策への態度できっぱりと割り切る。これを非情だとか、民主的でないという声が郵政法案に反対した自民党候補者のほうから聞こえてきたが、これこそが政治そのものである。そしてその割り切り方が、無党派層を中心とする有権者に受けたのである。心をわしづかみにしたという表現を使ってもいい。

 小泉首相のやり方を独裁的とか非民主的として批判する声が、選挙結果が出たあとにもいい募る法案反対派議員がいた。選挙に不当な圧力が加わえられたとか、明らかな欺瞞行為があったというのではないのだから、有権者は自分で考え、自由意志で投票し、議員を選んだのである。その結果をもって非民主的といった批判をするのは、有権者に対して失礼ではないかという気がする。

 政策で選ぶということが完遂されるためには、小選挙区制度というのが有効であることが、今回ほど明確に示された選挙はなかったであろう。単なる選挙制度改革を政治改革と呼ぶのかといった批判も浴びながら、10年前にできた制度が、ここにきて真価発揮ということである。オセロゲームのように、盤面がひとつのきっかけでがらっと変わる。恐ろしいといえば恐ろしいが、それだけの緊張感で選ぶ方も選ばれるほうも対処するのが国政選挙である。

 もう後戻りできないという気がする。単に、風が吹いた、吹かないといった次元の出来事ではない。選挙は大事と日頃から思っている私であるが、その選挙のありようと政党のありようが、これまた劇的に変わった潮目が、2005.9.11の衆議院議員選挙であった。後から振り返れば、きっとそういう見方になるという確かな予感もある。



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