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県警犯罪捜査報償費の予算執行停止

2005.6.28

 6月24日(金)、宮城県警の犯罪捜査報償費の予算について、これ以降の執行を停止する措置をとり、県警にその旨通知した。同時に、平成11年度の捜査報償費関係支出書類の提出と、関係した捜査員などからの聴取を要請した。

 予算執行停止の論理は、簡単明瞭である。予算執行権者としての知事が、その適正な執行に関して確証が得られない予算は執行できないということ。前提として、適正な執行についての疑念がある。

  「疑念」という言い方では、単なる心証の問題であり、しかも、浅野史郎個人の心証と思われてしまうので、ここは「疑問」と言っておこう。この疑問は、今や、広範な人たちによって共有化されている。その中には、6月21日の判決で「報償費の支払いの相当部分に実体がなかったと推認できる」と指摘した仙台地裁の裁判官も入っている。これまでのさまざまな情報と県警の言動を、総合的に、率直に考え合わせれば、疑問を持つのは当然という事態であり、それを私は「疑問の客観化」又は「客観化された疑問」と呼んでみた。

  疑問が客観化している中で、不適正支出を疑われている県警としては、必死になってその疑問を晴らさなければならない立場である。その機会が、昨年の7月に始めた、県警による内部監査だったはずである。

  内部監査の結果は、今年の4月21日に出された。そのやり方が、「不十分、不誠実」ということは、この「走り書き」の4月26日号「県警の内部監査」で詳しく書いた。捜査報償費予算から出ている謝礼を受け取ったとされる協力者に、この内部監査では1件もあたっていない。これは「監査の名に値しない」と評した。

  東川本部長からは、6月24日の記者会見で、「捜査員の聴き取りなどから、(適正執行の)心証を得たので、協力者から聞く必要がなかった」との反論があったことが伝えられたが、この発言は納得できない。監査では、ことに今回のような内部監査では、調査において「心証を得た」という程度で済まされるものではない。警察による内部監査ということを強調して言えば、警察の捜査では、この程度の聴き取りで心証を得たら、裏付けは取らないのだろうか。そんなはずはない。では、なぜに協力者に1件もあたらないといった調査で済ませたのだろうか。この疑問には、県警として明確に答える必要がある。

  県警は、今までも、今でも、「第三者が協力者にあたったら、協力者との信頼関係は終わり」といった言い方をする。内部監査は、「第三者」による調査ではないということを、忘れては困る。こういった言い方がされるからこそ、私は「内部監査で確認したらどうか」と言ってきたのである。

  一方で、「上司に言われて情報源をしゃべるようでは、捜査員失格」とも県警幹部は言っているらしい。それは、そのとおりなのだろう。だとしたら、その「情報源」(協力者)の名前が支出関係書類に記載されていることは、どう説明されるのだろうか。書類は決裁文書として、課内で供覧され、少なからざる上司、同僚の目に触れる。つまりは、支出文書に名前が記載されるような協力者は、ある範囲には知られてもいいという程度の人物ということになる。だったら、密かに調べられることに、そんなに神経をとがらすことはない。

  ともあれ、内部監査は、捜査報償費予算の適正な執行を明確に検証するために有効な手段であることを、改めて強調したい。だからこそ、その内部監査で協力者に1件もあたっていないことの持つ意味は、極めて大きい。これが、一連の流れの、一つの分岐点になったという意味は、こういうことである。

 今回の予算執行停止は、県警への対抗措置でもないし、お仕置きでもない。識者のコメントの中に、「仮にこれまで違法行為があったとしても、将来の予算にペナルティーを与えるやり方は疑問」というものがあった。「これまで違法行為があった」ということは、確認されていないので、念のため。それに加えて、今回の措置はペナルティーではない。冒頭に書いたように、適正な執行が確認できない予算は、予算執行権者として執行させるわけにはいかない。それが税金を納めている県民に対する知事の責任であるということである。あたりまえのことであるし、同様の状況下では、誰しも私と同様な判断をするであろうと思っている。そういう意味で、引用した識者のコメントには違和感がある。

  適正な執行をどうやって確認するのかについては、明確に申し上げているし、これまで繰り返し繰り返し県警にも言い渡している。支出関係文書を提出し、捜査員の聴取に応じてもらえれば、執行状況は明らかになる。だから、文書を提出し、捜査員などの聴取に応じてもらえば、その時点で予算執行停止は解除したい。

  県警にとって、この要請に応じることが、それほど高いハードルなのだろうか。「捜査上の支障」が必ず持ち出されるが、二つ言いたい。一つは、現在の状況は、県警にとっても非常事態であるということ。「捜査上の支障」の一点張りで、説明責任を果そうとしない姿勢は、極めて奇異である。どうしてそこまでこだわるのかの批判と疑問は、多くの人によって共有されている。

  もう一点は、「捜査上の支障」に照らして、文書の中のどこが支障にあたるのか、捜査員の聴取のどこがそうなのか、ちゃんと議論、精査すべきである。新聞紙上に見られる県警職員のコメント「できることと、できないことがある」というのに注目。「できることはある」のである。だったら、どこまでができることか、議論してみるべきではないか。

  昨年の今頃は、裁判所に提出する私の「釈明書」作成のために、書類の提出と捜査員への聴取を要請したところ、県警は応じたという実績がある。その後、理由にもならない理由で、突然、書類を引き上げて行くという結果にはなったが、(数時間の)実績はある。県の監査委員の監査では、一部目隠しはされてはいるが、文書は閲覧されているし、捜査員の聴取にも応じている。会計検査院の検査に対しては、宮城県警では、目隠しのない文書を閲覧させているという実績もある。そういったことは、捜査上の支障にはならないのか。それとも、方針変更して、「これからは、すべて「捜査上の支障になる」ということで、統一して説明しよう」ということになったのか。

  そもそもが、文書の提出要請は、知事から県警本部長へのお願いではない。予算を現実に使っている側とすれば、要請に応じるのは当然の責務である。そうでなければ、知事の予算執行権というものは、宙に浮いてしまう。その意味では、これまでと同様、今回の文書提出要請は、命令として受け止められるべきものであり、「捜査上の支障もこれありだが、どういうものだったら、知事に受け入れてもらえるのか」ということを知事に言うべきものであって、ハナから「捜査上の支障があり応じかねる」といった対応は、どう考えてもおかしい。

  「捜査上の支障」を言われるが、知事との関係においては、情報公開の問題として論じられるものではない。あくまでも、予算執行が適正に行われているかを確認するという目的で、知事が見る、知事が聴取するという要請であって、誰でもかれでもに対して公表するというものではない。「知事がそこまで信頼されていないのか」と言いたい気持ちはあるが、そういった次元で論じられる問題ではなく、システムとして「知事であっても立入り無用」という領域を認めるのかどうかという問題としてとらえられなければならない。

  県民がこの問題をどうとらえるか、県民の代表として、税金の使い方をチェックすべき県議会がどう対応するか。マスコミの姿勢、識者の論評も参考にしなければならない。ともあれ、私としては、あくまでも論理の世界の問題として、冷静沈着に考えつつ行動しなければならないと思い定めている。

  最後にもう一つ。今回の一連の出来事は、決して県警を懲らしめるといった趣旨のものではない。県警には、組織として期待された働きをして欲しいと思っている。宮城県の治安の維持、安全の確保の任務は重い。その際に、組織を構成する一人ひとりの捜査員、職員が、自分の仕事と組織に自負と誇りを感じられなくなる、そんな状態でいい仕事ができるだろうか。このことが私を突き動かす最も大きな要因であることをわかってもらいたい。

  この信念の下に、私に期待されていることを、確実に揺るぎなく推し進めていくつもりである。



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