名大関貴ノ花の逝去を悼む
2005.6.7
二子山親方(元大関貴ノ花)が、5月30日に口腔底がんのため亡くなった。55歳だった。貴ノ花の大ファンという立場ではなかったが、軽量ながら重量級の力士を打ち負かす姿、動きの速いしなやかな取り口、土俵際ぎりぎりまであきらめない執念に魅せられていた。ともかく、見ていてハラハラドキドキ、小よく大を制する相撲の醍醐味を存分に味あわせてくれる力士の典型であった。
貴ノ花逝去のニュースには、その名大関ぶりを振り返る映像が伴う。それを見ているうちに、しばし遠ざかっていた相撲への興味が戻ってくるのを感じたものである。「昔の相撲は良かった」という思い出と言ったほうが当たっているかもしれない。
子ども時代、プロ野球への興味より先に、大相撲があった。千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦の四横綱時代ごろが、最初の記憶である。私は、吉葉山のファンであった。横綱昇進後、病気に悩まされ、休場続きで「悲運の横綱」と呼ばれた美男力士である。その後のごひいきは、(初代)若乃花。息子さんを事故で亡くした悲運を乗り越えての優勝、40℃の高熱を押しての強硬出場での優勝、栃錦との全勝対決となった千秋楽での対戦を制しての優勝など、ドラマに彩られた姿が、少年の心をつかまないはずがない。小兵でありながら、「土俵の鬼」と称された迫力はカリスマ性十分であった。
若乃花の後は、一応、大鵬がひいきであった。「一応」と書いているのは、なんとなく気恥ずかしいからである。「巨人、大鵬、卵焼き」とお子様なら誰でも好きになる典型として、大鵬の存在があげられる。それだけ強かったし、美男ぶりも多くのファンを惹きつけた。私の場合は、少年雑誌で、「三段目納谷の少年時代」という記事を読んでいたのがファンになったきっかけだった。「雪深い北海道弟子屈の町で、黙々と雪かきに精出す少年こそが、三段目で優勝した納谷幸喜であった」といった記事である。幕下時代までは本名の「納谷」を四股名にしていたのがのちの大鵬である。「そんな頃から目を付けていたのだぞ」というのがささやかな誇りではある。
小学生の頃、仙台に巡業に来た相撲を見に行って、本当に驚いた。想像を絶する大きさなのである。大関松登の太鼓腹、大起ののっぽぶりなどなど、「相撲取りって、ほんとにでかいんだな」と圧倒された。相撲の魅力の一つは、この仰天体験と結びついているような気がする。日常を忘れさせる非現実性。単なるスポーツ以上のときめきがここにある。
貴ノ花、千代の富士、そして貴ノ花の二人の息子若乃花、貴乃花ぐらいまでが、私個人にとっては、大相撲に魅力を感じた時期である。今では、相撲取りの名前もほとんど覚えられないぐらい。すごく強い力士も、ちょっと強い力士も、たいていはモンゴル出身だったり、ヨーロッパ出身だったり。それが不満ということではないが、昔ほどの興味は持てないままになって久しい。
そんな中での、貴ノ花死去の報である。大関貴ノ花が活躍していた時代は、ずいぶん昔になったんだなという思いも湧いてくる。「昔」と書いたが、待てよ。亡くなった貴ノ花は享年55歳。私より2歳も若いではないか。改めて、早過ぎる死ということに涙を禁じ得ない。
改めて貴ノ花の偉業に敬意を表したい。現役時代の活躍で、大相撲人気をあれだけ高めた業績もあるが、引退後の藤島親方、二子山親方時代に多くの素晴らしい力士を育てた業績は、それ以上に素晴らしいものと言えるだろう。中でも、二人の息子を横綱にするなどということは史上初めてだし、今後もあるとは思えない。
その二人が不仲であることが喧伝されているが、そんなことはどうでもいいではないか。マスコミ報道もいい加減にして欲しいと願う気持ちもある。「親方」などと呼ばれているが、貴乃花親方はまだ32歳である。兄の花田勝氏だって34歳。周囲の大人、関係者が見守ってやるべきものである。そうでなければ、亡くなった貴ノ花だって、安らかに眠れないではないか。
そんなことはそんなこととして、我々に勇気を与えてくれた貴ノ花の現役時代の活躍を偲びつつ、心から感謝を申し上げたい。ありがとう貴ノ花関。
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