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河北新報2006.2.10
疾走12年から 第4回

県議会

緊張関係、白熱の議論

就任すぐヤマ場
 私の選挙は、政党の推薦を受けない形だったから、選挙後の県議会では、知事与党多数派は形成されなかった。ということもあり、議会と知事とは一種の緊張関係にあり、議会での議論が白熱する場面が少なくなかった。馴れ合いとは無縁。その点は良かったと思っている。

 知事就任後、ヤマ場はすぐにやってきた。三本木町に建設予定の保健医療福祉中核施設群構想に対して、私が見直し方針を出した直後の県議会では、批判、非難続出となった。「障害者施設を集中するのは、ノーマライゼーションに反する」と私は論陣を張ったが、県議会も対抗する。

 今から思えば、「ノーマライゼーションとは」などと偉そうに演説をぶつ私は、ベテラン県議会議員には生意気に見えたはずである。若気の至りに近いところもあるが、こういう問題について、議会と真剣に議論し合えたことは、決して悪いことではなかったと思い返している。

 それに引き続いて、(県職員の宿泊厚生施設)勾当台会館改築の白紙撤回、食糧費の不適正支出問題に関しての決算不認定など、県議会との間では厳しいやりとりがあった。しかし、その後、別件での議論は、さらに白熱の度合いを増すものであった。

副知事案再否決  
  まずは、情報公開条例の改正。これは、実施機関に県警察本部と県議会を加えるという趣旨であったが、その際に、県警本部長に文書非開示にする裁量を特別に広く与えるかどうかをめぐって、議論が噴出した。知事の原案は、裁量を限定するものであったが、それに異議ありの県警本部長が、知事原案の改定を主張して、議論の場を県議会に求めたことが紛糾の要因であった。

 議会では、連日、知事と県警本部長が答弁席でお互いを批判し合う場面が見られた。最後には、県警案を下敷きにした対案が提出され、その案が議会の賛成多数で可決された。それに対して、私は千葉正美議長に再議権の行使を求め、それに対して県議会は三分の二の賛成票を集めることができずに、議会案は廃案になったという、なんとも劇的な幕切れまで用意されていた。

 続いての田島良昭宮城県福祉事業団理事長(当時)を副知事に指名する人事案件は、2003年の2月定例会に提出された。私にとっては、田島氏は厚生省障害福祉課長時代からの福祉の同志である。福祉先進県づくりなどへの尽力を期待しての人選であったが、県議会の多数にはそうはとってもらえなかったようである。

 この議会で否決、続く6月議会に再提出したが、ここでも否決。結局、田島副知事案は実らなかった。痛恨の一事ではあったが、ルールに則って示された議会の意志であるので、そのまま受け止めざるを得ないと自分を納得させた。

論客の多さ感心
 こういったこともあったが、私は県議会との関係は、極めて健全だと思っている。堂々たる議論の場であり、議員には論客も多かった。1998年のNPO促進条例を手始めに、議員提案で成立した条例は20本近くとなった。議会は唯一の立法機関であり、その意味では、宮城県議会が議員提案条例数でトップを走っていることは、とても喜ばしい。

 県議会では、議員の大多数が、再質問、再々質問をした。知事を辞める少し前の議会からは対面形式が取り入れられ、持ち時間の範囲内であれば、再質問は無制限となった。それも含めて、私は議会での答弁は嫌ではなかった。知事を辞めて、議会での答弁ができないのは、ちょっと寂しい気もする。いずれ、一県民として、県議会の傍聴に出掛けることがあるかもしれない。


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