![]() 河北新報2006.2.7. 知事就任 思いもかけず、宮城県知事になって12年。あっという間という気もするが、12年はそれなりに長い。忘れる前に書き止めておかなければならないこともある。お勧めがあったのを幸いに、回顧録のようなものをこの時点で残しておくことは、意義のあることかもしれない。 気持ちの浮き沈み それから約1ヶ月、宮城県では、出直し知事選挙の候補者選びが一段落し、当時の副知事八木功氏が、多くの政党、団体の推薦を受けて擁立された。知事逮捕の3ヶ月前には、石井亨仙台市長も同じくゼネコン汚職で逮捕。「知事も市長も逮捕、そして、今度は副知事が候補者」。宮城、仙台の人たちは、持って行き場のない恥ずかしさ、やるせなさ、憤懣を抱えながらも、あきらめの境地にあった。 そんな状況を横目で見ながら、私は厚生省生活衛生局企画課長の職を淡々とこなしていた。古里の大変な状況を知りながらも、私が出て行く場面でもあるまいという気持ちが強かった。「今、宮城県に戻ったって、20対0で負けている野球の9回裏ツーアウト、ランナーなしの最後のバッターのようなものだぞ」という、母校仙台二高の大先輩の助言もある。上がったり下がったり、気持ちのジェットコースターを味わっていた。 無い無い尽くし 11月1日、23年余勤めた厚生省に辞表を出して、仙台に戻った。知事選の告示は3日後の11月4日。1ヵ月定期にしようか、3ヶ月にしようかと、購入時に一瞬迷った定期券は、結局、2ヶ月分ほど残して使用せずになってしまった。 17日間の選挙戦は、仙台二高の同級生など素人中心のドタバタ続き。戦術などないに等しい。知名度ゼロ、時間も金も組織もない、無い無い尽くしの選挙であったが、結果は、八木候補に8万票余の差をつけて当選となった。 初戦こそが原点 選挙が終わってから、「誰が出ても勝てた」と言われたことがある。それはそのとおりだろう。「みやぎに誇りを取り戻して欲しい」という県民の期待があり、その期待に応える立場で立候補すれば、候補者が誰であっても当選は果たせたと思う。 つまり、私を知事の座に推し進めてくれたのは、私の能力や実績ではなくて、「宮城県の恥を吹き払ってほしい」という思いであった。このことを私は「出生の秘密」として、知事である間ずっと持ち続けていた。 知事として悩むたびに、この「出生の秘密」に思いをいたし、最初の選挙の際の原点に立ち戻って、難しい判断をする場面が少なくなかった。そんな場面が、知事就任後すぐにやってくるとは、思いもかけなかった。その詳細は、次回で。
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