![]() 月刊ガバナンス平成19年2月号 自治体不祥事と首長の姿勢 選挙との関係 首長逮捕にまで至る一連の自治体不祥事を仔細に見ていけば、選挙で特定の個人、企業、団体に特別の借りを作ったことが原因になっていることに気がつく。借りは返さなければならない。それが人の道であるとすれば、選挙では特別に恩義を感じるような借りを作ってはならない。 選挙に関してはもう一つ。「選挙は金がかかるもんだ」とは誰が言い触らしているのか。同じように、「選挙では業者の世話になるもんだ」、「議員たちには票の取りまとめを頼むもんだ」といったことなど。こういう言い方をする「モンダの人々」はすべての業界にいる。 選挙における「モンダの人々」には、議員選挙での経験者が多い。地方議会の議員選挙では、あそこの地区でいくら、この業界でいくらと票を固めていく「レンガ積み上げ型選挙」が主流である。一方、首長選挙は、その県なり市でたった一人を選ぶ「美人コンテスト」である。政策はもちろん、人となり、そして選挙をどう戦っているかの「美しさ」で有権者を魅了しなければならない。有権者の意識も変わってきている。旧来型のお金をかけた、業界に頼った選挙では、21世紀の首長選挙では、多くの一般有権者の美的感覚に合わなくなってきていることにも気がつくべきである。 「首長選挙は金がかからない」、「知事選挙は金をかけなくとも勝てる」というのが私の実感なのだが、「それは浅野だからできたこと」との声も聞こえてくる。そんなことはない。金をかけないのは、正義感や倫理観に基づくものではないし、やせ我慢でもない。これこそが、これからの首長選挙の必勝法である。そもそも、金をかけるといっても、どこにかけるのか、そして、それは公職選挙法で許されているのかも、問われるべきである。「選挙は金がかかるもんだ」という言説にまどわされないこと、そのぐらいの見識は、首長になろうとする候補者は持ち合わせていなければならない。 一連の首長がらみの不祥事を見ていると、候補者は、旧来型選挙の「常識」にからめとられていることが見て取れる。有権者は首長候補者の選挙においては、候補者の戦い方の図式まで、しっかりと見ておくことが必要である。変な図式で、旧態依然たる選挙をするような人は選ばない。これこそが、首長の関わる自治体不祥事を再発させない一番の近道である。
議員、業界、職員との関係 議員選挙の際に、候補者として有権者に売り込むのは、行政とのパイプの太さである。有権者も、その選挙区のために行政がどれだけ要望を聞いてもらえるかの力量で候補者を選ぼうという意識がある。であるとすれば、議員になったあかつきには、その議員は行政に取り入って、選挙区の利益にかなう働きをしようとすることになる。その役割を果たすためには、与党、つまり首長のお友達になる以外方法はないと思い込むのも当然かもしれない。そういう役割認識の議員に、首長を厳しくチェックして、首長に嫌われるリスクを冒す勇気があるとは思えない。 首長のほうも、議会に厳しくチェックされるのは歓迎しないから、現職が再選を狙う時にはその選挙において、議員を味方につけるに越したことはないと考える。そのほうが、選挙戦も有利に戦えると踏んで、議員取り込み工作を計ることになる。 こうやって、首長と議会との蜜月が簡単にできてしまう。しかし、これを蜜月の甘い関係と考えるのは、それこそ甘いと言うべきものである。 首長や行政をチェックするのは、議会だけではない。監査にも、外部監査というやり方が導入されている。市民オンブズマンの挙げた実績も顕著である。内部告発から不祥事が明らかになる例が増加している。そういった中で、議会がチェック機関として何の役割を果たしていないことが明らかになり、「首長と議会は甘い関係」ということ自体がスキャンダルになりかねない。 だとすれば、首長としても、議会との甘い関係を構築することは、両刃の刃と自覚すべきである。むしろ、議会との関係がいい意味での緊張関係になっていることは、不祥事を未然に防ぐ意味で、自らの身を守ることにつながる。さらに言えば、議会の役割は首長のチェック機関ということが第一番ではなくて、唯一の立法機関であることを今こそ認識すべきである。議員たるもの、まずは政策立案能力を磨くこと。それが有権者への最大の売り込み材料になるようになって、地方議会は初めてその存在意義を示すことができる。 業界との関係は、首長としては、まずはどんな形でも借りを作らないことが求められる。借りを作れば、首長においてそれを返す必要性が出てくる。それが公正たるべき行政運営をゆがめることに通じる。 首長は強大な権力を持っていると言われるが、実際の権限は行政組織内の各部署に分散されている。一つ一つの許認可とか、予算配分とか、ましてや公共事業の入札における落札者の決定とか、そういった個別の案件にまで首長が関心を示すこと自体が異例のことである。そんな具体的案件にまで関わることになったら、首長の身体がいくらあっても足らない。首長は極めて多忙な存在である。 だから、よほど重要な案件以外は、首長が個別案件に口を出すことがあれば、「おかしい」と職員が感じるのがふつうである。そこに不祥事のにおいをかぎつけることは、それほどむずかしいことではない。となると、職員側の問題になる。首長の動きがおかしいと思ったり、不正があると感じたら、首長をチェックするなんらかの行動に走ってしかるべきであろう。しかし、それはあまり期待できない。その背景には首長の人事権の存在がある。 私の3期12年の知事業の中で、知事の権力を意識することはほとんどなかった。あえて言えば、人事権であろう。 人事権を持たれている側の職員からすれば、自分の生殺与奪の権が知事に委ねられていると感じるだろうことは理解できた。だから、職員は首長が不正をしていることに気がついても、それに対して何らかのチェックの行動を起こすことは至難の業となる。言わぬが花、沈黙は金となるのは、容易に想像できる。このことは、多選の弊害に結びつく。職員の人事権を握っている首長の任期が長くなればなるほど、「言わぬが花」の風潮は職員間に広がっていく。不祥事が組織内からは明るみに出ない図式がこうしてできていく。
不祥事への首長の対応 大きな要因は、宮城県情報公開条例の存在である。この条例がある限りは、実態を隠しとおせるはずがない。 不祥事の真相解明を迫る仙台市民オンブズマンは、訴訟まで提起している。誰が判断しても、同じ結果になっただろうと思う。つまりは、不祥事を乗り越えるのには、個人としての首長の資質ではなく、システムとしての条例、規則の存在が極めて重要であるということである。 この経験から、宮城県庁では、情報公開の必要性が、実物大で組織全体に広がることになった。「情報公開は組織を救う」、「情報公開は転ばぬ先の杖」ということが、すべての職員によって理解された。そのことが、今もって理解されていないのが、宮城県警察本部であることは、警察組織にとっての悲劇である。「捜査上の秘密」という理由で、情報公開に聖域を設けている。情報公開の聖域は、必ず腐敗するという鉄則を理解してもらいたい。 岐阜県での裏金問題が今頃になって明るみに出て、大きな混乱を招いたことは、情報公開の重要さが十分理解されていなかった結果だろう。情報公開のシステムが機能すれば、行政にとって都合の悪いことも、いずれ必ず明らかになることに真剣に思いをいたしていれば、未然に防げた混乱であった。 不祥事のにおいがした時に、実際に動くことができるのは、組織のトップである。行政組織でいえば、首長ということになる。その意味では、首長の責任は重い。不祥事そのものが一次災害とすれば、その不祥事を隠蔽しようとするのは二次災害。隠蔽工作に首長も関わったとすれば、その災害のもたらす被害はとてつもなく大きい。一次災害の部分なら謝れば済むものが、二次災害ではそれだけでは済まなくなる。組織全体を揺るがすことになる。改めて、首長の果たす役割の重要さに目を向けるべきである。
不祥事を乗り越えた地方分権改革 まずは、自治体不祥事で受けた痛みを首長を先頭にして、自治体としてしっかりと受け止めるべきである。他の自治体も、他山の石として、問題の本質を真剣に見詰める必要がある。そこを出発点に再生の道が開けてくる。 住民の関わりも重要である。官製談合は、納税者として納めた税金が簒奪されたことを意味する。裏金問題は、納税者のお金が勝手に使われたことである。納税者は怒らなければならない。怒った後は、どうしたら再発を防げるかを考えることである。お任せではだめだということに気がつく。議会もチェック機能を果たさなかったとすれば、議会に代わってチェックしよう、又はちゃんとした議員を選ぶ方策を考えようとなるはずである。 「地方自治は民主主義の学校」と言われながら、その学校に入学する住民は少なかった。今目の前にしている自治体不祥事は、住民の無関心も遠因である。無関心にはツケが回ってくる。今回の不祥事を契機にして、納税者たる住民が自治体の運営に大きく関わる体制の構築こそが求められる。だとすれば、今こそ、地方分権を進めるべき秋である。地方分権の構築こそ、「お任せ民主主義」からの脱皮のための必要条件であるからである。
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