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2013年2月1日
自治日報
《自治

執筆原稿から

地方自治体と民主主義

 今更ながらであるが、地方自治体とは何だろう。民主主義とは何だろう。「3.11」の原発事故後の原子力発電所の再稼働、地方分権の進展という、現下の重要な出来事を例にとって、改めて考えてみたい。その際には、知事、市町村長、地方議会は自治体を代表している存在であるが、地方自治体そのものではないこと、また、自治体とはそこに住む住民の集まりのことであることを確認しておきたい。そして、民主主義とは、首長、議会といった為政者側と自治体住民が対峙する形も含んでいること。まずは、これらのことを改めて確認しておいて、論を進めたい。

 原子力発電施設の立地自治体と事業者(電力会社)との間で、「原子力安全協定」が結ばれている。協定では、原子力発電所を再稼働するにあたっては、自治体の事前了解を得ることとされている。協定の文言としては「自治体」でなく、「地元」、「地域」が使われている場合がある。ここで、自治体とは何か、地元とは何かが問題になってくる。

 「地方自治体とは、そこに住む住民の集まりである」ということを強調すれば、首長の了解は、そのまま自治体の了解としていいか、議論の余地がある。自治体イコール首長ではないのだから、「首長の了解」イコール「自治体の了解」と決めつけることはできない。具体的には、立地自治体の住民の大多数が原発の再稼働に反対という状況の中で、首長は「了解」ということができるだろうか。形式的にはできるし、その了解は有効であるが、政治的にはどうか。次の選挙では、その首長は再選を果たせないことがあり得る。しかし、それは事後的決着であり、住民多数の反対にかかわらず、再稼働してしまっては、どうにもならない。

 「再稼働の是非」といった自治体全体として極めて重要な判断を事後的決着に委ねてはならない。首長としては、了解するかどうかの判断の前に、何らかの形で住民の意思を確認する必要がある。その上での判断でなければならない。別な言い方をすれば、「それが民主主義」ということになる。民主主義は、ものごとの決定プロセスに関わる。

 民主主義について語るときに、「地方自治は民主主義の学校」(英国の政治学者ジェイムズ・ブライス)の言葉が思い起こされる。地方自治体の首長や議員が、国会議員への「進学」を考えて地方自治体で政治を学ぶという意味での「学校」ではない。「民主主義」を学ぶのだから、その主体は住民である。ブライスの言葉に「住民たちが、公共に対して責任を持つという原理の運用を狭小な範囲で観察することにより、より大規模の問題について立派に応用できるようになる」というのがある。「狭小な範囲」とは、地方自治体のことを指し、「より大規模の問題」とは国政のことであることは言うまでもない。

 地方分権の推進は、誰のためのものか、何のためなのか。自治体が、財源・権限を国から取り返すことにより、自治体運営の裁量の幅を広げるということだから、自治体の為政者のためのものということになるが、それだけではない。

 自治体が実施する施設整備や施策内容について、国が定める基準を排除して、自治体 自分で基準を設定するのも地方分権の中身である。その基準について異論があるときに住民が注文をつける相手は、自分たちで選んだ首長や議員である。その働きかけの結果、基準が変えられる可能性がある。霞が関の役人が決めた基準に注文をつけたくとも、霞が関はあまりに遠い。

 地域に合った基準かどうか、住民が考え、不服があれば自治体の為政者に異議申し立てをする。これが民主主義の実践であり、その積み重ねが自治の力を高めていく。

 地方分権がさらに進めば、民主主義を学び、実践する場としての学校は、さらに充実する。「地方自治は民主主義の学校」ということが、現実として実現するということである。地方分権の推進の意義は、ここにこそある。


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