宮城県知事浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

ジョギング日記 8月第4週

2002.8.23(金)

 今日だったか、昨日が「処暑」らしい。つまり、夏の暑さも、ここまでということ。ほんとにそのとおりで、ここ仙台は、処暑の前から秋になった。外は青空、空気は乾燥、気温は天然のクーラー。急に涼しくなって、夏も終わりかと思うと、ちょっと寂しいというのは、ぜいたくな悩みだろう。

 そんな素晴らしい気候が戻った。しかも、手元には新しいシューズ。これで走らなければもったいない。少し疲れ気味ではあったので、今日あたりは、4Kに止めておいたが、4K走って、4K分だけの幸せを味わった。

 韓国産かきの混入問題の調査報告を発表したと思ったら、埼玉県の業者が宮城県産ひとめぼれのブランドで、他県産のお米、古いお米を混ぜて販売していたというニュースが入ってきた。なんたること。日本ハムの不祥事、無認可農薬の販売・・・・。食品に関わるさまざまな形の不祥事が、連日のように起こっている。私の最新のメールマガジンのコラムでも書いたが、まさに「うそつき食品」の横行である。  


2002.8.21(水)

 昨日は、韓国産かき混入問題に関する調査報告、そして今日は、県警の出張旅費についての監査委員会報告があった。結構大きい課題についての報告が続いた。特に、監査委員の報告については、いろいろと考えさせられることがあった。

 そんな思いがストレートに出たのだと思う。県警の出張旅費問題について、記者の質問に答えている私の表情が固い。久し振りに、自分が出ているニュースを見て、そう思った。監査委員の報告に「ちょっと首を傾げるところがある」というコメントを述べている場面がそうであった。

  平成6年度、7年度の県警の出張旅費の執行が適正に行なわれたのかどうかという、とんでもなく古い事案について、この時期に知事が監査請求をした。異例の事態である。どうして、そんなことになったのかということが、出発点である。

  同じ事案について、「カラ出張だった。旅費を県に返還せよ」という訴えがなされた裁判において、被告である当時の県警の職員が、「カラ出張があった」ということは認めずに、「160万円の金額を返還せよ」という請求は認めた。そのために、裁判が終結してしまったということがある。いわゆる「請求の認諾」である。そもそも、そのことが、不自然である。

  その不自然さが、今回の監査請求の契機になった。その不自然さが、監査によって晴らされたか。私に言わせれば、答は「ノー」である。「疑い」とまでは言わない。「不自然さ」というのが、正当なところである。どうも、全体のストーリーに、不自然なところがある。そんなことから、「首を傾げる」という、率直な私の反応にあった。


2002.8.19(月)

 休暇も終わった。久し振りの出勤である。その前に、曇り空の下、軽く6K。一週間の初めに、きっちりと走っておくと、気が引き締まる。

 いつもの月曜日と同じ午前中。定例記者会見は、どういうわけか、45分以上になり、お昼の時間に食い込んだ。筒砂子ダムの建設休止に関して、休止期間中に、県が単独で実施しようとしていた水文調査に対して、国の補助があり得るということになったので、「それでは、補助事業でやろう」という方針を出した。それに関する質問が、結構長引いた。他に、韓国産かき混入疑惑、住民基本台帳ネットワークの運用などに関する質問があった。

 昨日の日記に書くのを忘れたのだが、近江八郎さんの葬儀が終わったあとのことが印象に残っている。塩竃市での葬儀に、車を持たない私としては、仙石線を使ってでかけた。その帰りのこと。西塩釜の駅で、電車が来るまで30分ほど待つことになった。快速の止まらないローカル線は、なかなか大変なものだなと思ったものである。

 そんなことを言いたいのではない。そこで、同じく、近江さんの葬儀に参列していた軍隊関係の人達と一緒に電車を待つことになった。そこで聞いた話が、なかなかに興味深かったということを言いたいのである。

 近江さんの戦友の横山さんの話。彼は、二回死にそこなった。中国に進出していた初年兵の頃。生のとうもろこしを悪い水と一緒に食べたら、ひどい下痢症状に。それまでの猛訓練で消耗していた身体にはひとたまりもなく、「死んだ」のだそうだ。むしろにくるまれて、火葬に付された。足元に火がついたところで、横山さんは「熱い」といって飛び起きたとのこと。死の淵からの生還。

 二回目は、中国兵に包囲されて、敵の銃弾が目の上を通過して、意識を失い、ばったりと倒れた。丁度それと同じ時間に、名取の実家に横山さんが現れた。玄関に出た母親に「何もいらない、水だけくれ」といって、そのまま姿はかき消えた。中国では、しばらくして、横山さんは、生き返った。

 その他に、右手を銃弾が貫通、背中は火勢で焼かれたこともある。そんな満身創痍だった横山さんが、84歳になって、私にそんな軍隊時代の体験談を語っている。我々が教科書で知っている「史実」とは全く違った実態のこともお聞きした。

 こういう生き証人とも言うべき人が、高齢に達している。歴史の証人の生きた証言をどうやって残していったらいいのだろう。残された時間はあまりない。


2002.8.18(日)

 まず、昨日の出来事から。起床は遅かったが、思い立って1時間走。

 夜は、これも数日前に突然思い立って、小学校の同級生とミニ同級会。男性3名、女性2名で昔話に花が咲いた。我々は、本当に仲がいい。いきなり、45年分の時間の流れが、引き戻される思いである。育ったところに戻って、そこで仕事ができていることの幸運に感謝したくなる瞬間といえる。二次会は、例によって、オールディーズ生演奏の店、ケントスへ。50台半ばが、踊り狂うの図。頼んだ訳でもないのだが、キャデラックスのリーダーが、エルヴィスのナンバーを何曲も演奏してくれた。

 そして、今日。朝起きるのが少しつらかったが、がんばってSMCへ。つい最近まで一緒に走っていた、常連の近江八郎さんの姿がない。この12日、82歳で亡くなった。走ったあと、参加者50人ほどで、近江さんのご冥福を祈って黙祷。

 このお年で元気に走っている姿は、私にとっては、ひとつの目標であった。こんなふうに亡くなってしまうとは、信じられない。とても残念である。近江さんは、仕事をリタイヤしたあと、このSMCだけでなく、ボーイスカウト活動、ロータリークラブ、軍隊時代の仲間との活動、そして、さまざまな社会活動を精力的に続けていた。持ち前の明るさと、人を引きつける魅力で、ネットワークをどんどんひろげていた。老後の過ごし方のモデルが、ここにあったという感じであった。

 その近江八郎さんの葬儀があった。妻も、知的障害者のスポーツ活動である「スペシャル・オリンピックス」を通じて、近江さんにお世話になっていたので、一緒にでかけた。奇しくも、今日は、亡き父の21回目の命日。生きていれば、近江さんと父とは、大体同年代であった。その意味でも、感慨深い葬儀であった。

 夜は、長女の24回目の誕生日のイブということで、二人のおばあちゃんも一緒に、家族で外での夕食会。こうやって、2回に分けた、今年のお盆休暇は終わった。


以前のジョギング日記はこちらから



TOP][NEWS][日記][メルマガ][記事][連載][プロフィール][著作][夢ネットワーク][リンク

(c)浅野史郎・夢ネットワーク mailto:yumenet@asanoshiro.org