宮城県知事浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

ジョギング日記
2001.8.4

 出発時点の朝6時14分は、雨がポチポチ降るほどで、曇り空。走り始めて30分後には日が出てきて、折り返しの50分地点では気温がぐんぐん上昇の様子。復路は東に向かって走るので、直射日光をまともに受ける。日焼け止めクリームを塗っていないので、これだけでしっかり日に焼ける。Tシャツは汗びっしょりで身体にまとわりつく。

 夏のジョギングの難点はこういうことである。冬ならば、まだ真っ暗な中に外に飛び出して行く。走り出した時には、寒さが身にしみるが、走っているうちに身体が温まってくる。日が昇ってきて、周りの景色がだんだん見えてくる様子を眺めながら走ることは、冬のジョギングの醍醐味である。

 ふだんなら45分で到達するのが、東北で初めての子ども病院の建設予定地である。5年ぐらい前の地名変更までは、「愛子」(あやし)という、子ども病院にはぴったりの地名だったところである。今日は、その地点まで50分かかってしまった。そこで折り返してからの走りは結構ばてばて状態。あと20分でゴールというところで、アブラゼミが「ミ−ンミーン」と鳴く声が聞こえてきた。ばてばての走りをあざ笑われているような気がして、疲れが倍加する。心の中で、「うるさいんだよ、お黙りなさい」と毒づいていたら、「ホーホケキョ」とうぐいすの声。それで少し救われた。

 セミとうぐいすが同じ時期に鳴くなんて、あまり意識していなかった。この異質の二人のデュエットは可能なんだと、初めて認識した。なんだか、異質の政党の連立与党なんてことまで頭に浮かんだのだが、ばてばて走りの中、それ以上の連想は続かなかった。


2001.8.3

 朝早く、東京から仙台に戻る。ジョギングは今日もなし。今日で3日目の政策会議。今日の課題は、各部局の事業の徹底的見直し。つまりは、どうやって予算を削減するかという議論である。当然ながら、血湧き肉踊る種類のものではない。どちらかと言えば気が滅入るような作業である。にもかかかわらず、各部局とも誠心誠意作業をしてくれた。

 小泉内閣の構造改革は、これまでの行政の常識を疑うところから出発している。国民に対する痛みも避けて通らないという覚悟である。その構造改革の姿勢が国民にも基本的に受け容れられて、参議院選挙での与党大勝という結果に結びついたのだろう。であるとすれば、これは一つの転換点である。宮城県としても、構造改革に取り組まなければならない。

 「金がないから」というだけのラフな議論では済まないだろう。理論武装をしながら、県民の皆さんの理解と協力を取り付けなければならない。極めて困難でつらい作業ではあるが、逃げずにやり通さなければ、次の展望が見えてこない。


                                       2001.8.2

 パラオ共和国の大統領が宮城県を訪問中である。パラオが太平洋戦争の前に日本の委任統治国であった時代に、パラオへは多くの日本人が移り住んでいた。戦争が終わって、パラオから引き揚げて来た人の中に、本県の蔵王町の開拓地で苦労したグループがある。その名も「北原尾」と名付けた地域である。大変な困難の末に、酪農と大根づくりで成功を収めた。

 パラオゆかりのこの地を、パラオの大統領が昨日訪問した。今朝は、その大統領との朝食会が蔵王のホテルで開かれた。45歳の大統領といろいろ話をしたが、めがね、剥製、「疲れた」、「おいしい」といった、日本語由来でパラオの言葉として使われているものの披露もあった。ことほどさように、パラオと日本とは縁が深いのである。

 朝食を終えて、大統領を送り出そうとしてレストランを出たら、年配の女性が待っていた。昭和8年から21年までパラオに住んでいたのだそうだ。「パラオ松島のすぐ上に住んでいました、あの波止場はまだありますか、同級生のウエキさんはパラオでえらくなったそうですが、どうしているでしょうか・・・」と話が尽きない。「パラオに行きたかったのに、身体の具合が悪くて行けなかった」と言いながら大統領の胸に顔をうずめて、「パラオの匂いがする」と泣き出してしまった。大統領も涙ぐみ、見ている私たちももらい泣き。

 空港のある島と首都のある島とをつなぐ橋が数年前崩落してしまい、その後日本の援助で再建されつつある。その立派な橋は、「パラオ日本友好の橋」と名付けられ、今年の12月に完成予定とのこと。「テープカットにどうぞおいで下さい」とお誘いを受けた。そのタイミングでの訪問はむずかしかろうが、いつか行ってみたいと思う。

 午後からは、第4回目の「国と地方の税制を考える会」という十二県知事会議に出席。東京の都道府県会館での開催である。私は4回とも皆勤賞である。小泉構造改革の中で、我々に対して問題提起がなされているのである。我々としても、しっかりとした回答をする義務がある。熱気のこもった会議であった。こうやって世の中が変わって行くのだろう。


                                       2001.8.1

 今日から8月。しばらく朝早い日が続くので、走りはしばらくお休みとなる。今朝の早出は、仙台東部道路・南部道路の全線開通の行事に参加のため。

 まずは、東部道路の亘理・岩沼間2.2Kが開通したので、亘理インターチェンジでの開通式に出席。そのあと、仙台東インターチェンジでの開通式に臨んだ。亘理では霧雨程度だったのが、仙台東では本降り。記憶に残るテープカットになった。

 これで、石巻から亘理までが高速道路でつながった。同時に、仙台南部道路が東北縦貫道とつながったことの効果もとても大きい。石巻から仙台港、仙台空港まで高速道路経由でまっすぐ行けるようになった。空港、港湾、高速道路という3っつのKが連動することになる。

 道路特定財源の見直しの議論で、私としてもいろいろ言ったし、いろいろ言われた。それにしても、こういう形での道路ネットワークができていくことによって、地域の経済や地域起こしにとって計り知れないほどのメリットがある。ありがたいことであるし、協力いただいた多くの方々に御礼を申し上げたい。

 せっかくの道路網である。「できてナンボ」ではない。「使ってナンボ」である。せいぜいこの道路網を使い切ることが求められる。

 昨日の「官製談合」に関する内部調査の結果報告。これに対する新聞各社の報道ぶりがさまざまである。当方としては言いたいことはいろいろあるが、決してほめられた仕儀ではないのだから、なんと言われようとも、言い訳は無用で淡々と再発防止のために全力を上げるしかない。


                                      2001.7.31

 今日で7月も終わり。30℃以上の真夏日が仙台で13日あった。観測史上2番目の暑さだとか。今日も30℃以上。朝から相当に暑い。その暑さの中、今朝の走りは、無理のないように4Kで切り上げた。7月の月間走行距離は、144K。これだけの記録的暑さの中では、よく走ったと言える。

 臨時記者会見で、「官製談合」についての内部調査の結果を発表。実人数で8人の職員が、広い意味での官製談合に関わっていたという内容である。調査対象は平成9年以降であるのだから、宮城県庁としても、綱紀粛正という面では相当に気を遣っていた時期にあたる。その時期に、こういったことに職員が関わっていたということは、衝撃である。中には、平成12年度の事例もあるのだが、平成12年の1月には、外部からの働きかけがあった場合の報告義務も決めていた。そういったマニュアルを職員に示していたのにもかかわらず、それが守られていなかった。

 明日の各紙の扱いが気になる。どんなに非難されようとも、真実を明らかにすることは、我々としての義務である。そんな思いで内部調査を行なった。調査結果に基づいて、職員の処分をすることになる。逃げない、隠さない、ごまかさないという方針でやるしかない。この試練を乗り越えて、宮城県庁は生まれ変わらなければならない。


                                      2001.7.30

 選挙から一夜明けた。参議院選挙、仙台市長選挙。仙台市長選挙のほうは、現職藤井黎さんの圧勝だったので、「当確」は、10時前に出た。参議院選挙は、民主党の現職、岡崎トミ子さんに続く第2位争いが最後までデッドヒートを繰り広げ、自民党の推薦を受けた新人の愛知治郎さんの当確が出たのは、午前1時近くになっていた。いずれの選挙事務所にも、当選お祝いに駆けつけたので、愛知治郎さんの事務所を後にしたのは、午前1時過ぎになってしまった。

 そんなわけで、睡眠不足気味。ジョギングは、当然休み。定例記者会見で、選挙結果についての見解を尋ねられた。参議院議員なので、6年間じっくりと国政について考えていただける議員であって欲しいということを申し上げた。こまごました地域のことは、あまり気にしなくてもいい。まさに、国家の進む方向が問われている。その意味で、しっかりやって欲しいと、心から思う。


                                      2001.7.29

 今朝のジョギングは、なんと、岩手県釜石市の根浜海岸。地元のトライアスロン同好会の人達十人ぐらいと、海岸を走った。6K走ってもの足りなかったので、4K追加。とても気持ちのよい10Kだった。

 そもそも、なんで釜石か。新日本製鉄の森東北支店長と、その前任の猪瀬現釜石製鉄所所長から、ぜひ一度視察をと言われていたのが、今回実現した。平成の初めに溶鉱炉の火を消した「製鉄所」が、一体どうやって生き延びているのか、興味はあった。

 それが、見事に生き延びているのである。「本業」の鉄の加工の他に、火力発電所を溶鉱炉の跡地に建設して、しっかり稼動している。子会社も含めてであるが、文化財の出土品の保存、まつかわがれいの養殖、大豆タンパクを使ってのハム製造などなど。ご案内の猪瀬所長に、「涙ぐましい努力ぶりですね」と申し上げたが、したたか、がむしゃら、創意工夫という言葉も浮かんでくる。あいた土地への企業誘致も着々と進めている。こういった努力の成果として、溶鉱炉閉鎖で余剰人員となった職員をすべて吸収し終えたというのだから、すごい。

 視察の前には、地元で地域おこしに努力している「青年」17人と「車座談義」を設定してもらった。溶鉱炉の閉鎖もあって、人口がピーク時の半分以下に減ってしまい、高齢化率が30%とかいう悪条件の下で、がんばっている人達である。こういう人達があきらめずにいる限り、日本の将来は決して暗くない。


以前のジョギング日記はこちら
 2001年7月第4週分
 2001年7月第3週分
 2001年7月第2週分
 2001年7月第1週分
 2001年6月第5週分
 



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