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JR福知山線の脱線事故

2005.5.3 

 史上稀に見る大規模な鉄道事故となってしまったJR福知山線の脱線事故である。時間の経過とともに、死亡者の数が多くなり、これを書いている現在では107人に上った。現場の映像はとても衝撃的であるし、死者の多さに戦慄を覚える。これだけ多くの犠牲者を出した事故であるので、原因については、直接的なものだけでなく、間接的なもの、構造的な要因も徹底的に究明されるべきである。そういった過程を経ての真剣な反省と改善をしなければ、亡くなった方々の無念は晴らせない。まずは、事故の犠牲者に心からなる哀悼の意を表したいと思う。

 脱線事故の直接的な原因は、カーブでのスピードの出し過ぎということに結論づけられそうである。制限速度が70`のところで、なぜ時速100キロを超える速度でカーブに入ったのか。直前の駅でのオーバーランのために、90秒の遅れが出た。その遅れを取り戻すためだったのではないかといった推論がなされているが、運転手が事故で亡くなっているので、直接確かめる方法はない。

 JR西日本が責められている。並行して走る他社との競争に勝つために、スピードを上げることに過度に熱心だったことも、運転手をあせりに追いこんだ要因ではないか。だとすれば、それは会社の方針に起因するものであるという論法である。

 5月2日の朝日新聞(「時時刻刻」)では、JR西日本の運転士の年齢構成のいびつさが指摘されている。4,096人の運転士のうち4割が20代で、30代は0.5%。1987年の民営化の前後10年間、人員削減策で高卒社員採用が停止された影響であるらしい。事故を起こした運転士も23歳、運転士歴11ヶ月ということであった。多くの乗客の命を預かる運転士の技量は、この程度の経験年数で問題はないのかとの疑問は残る。

 「日勤教育」なるものの一端が、テレビ朝日で報道されていたのを見た。事故を起こした運転士もこの教育を受けたようであるが、受ける側からすれば、反省に基づく教育というよりは、いじめに近いような受け止め方であった。「絶対にまちがいは起こすな」という教育の必要性は認められるが、こういう「教育」を受けた後に、まちがいを起こしてしまったとすれば、人によってはパニック状態になるのではないか。

  事故を起こした運転士は、直前にオーバーランという「まちがい」を起こしている。「このオーバーランによってもたらされた90秒の遅れをなんとしても取り返さなくてはならない」と追い詰められた気持ちになったとすれば、教育は逆効果になったのかもしれない。

 今回の事故の原因について、JR西日本が安全よりも経営を優先し、日頃から定時運行にこだわりがあったことを挙げるむきがある。こういった構造的な要因とともに、私とすれば、上記の「日勤教育」に見られるように、運転士という専門職のありかたも問題にすべきではないかと考える。

 どなたにも経験があると思うが、私ぐらいの年代の子ども時代は、「電車の運転手になりたい」という夢が一般的であった。それより少し後の時代は、「新幹線の運転士」であろうか。子どもにとって、飛行機に乗る機会は電車や新幹線ほど多くはないので、航空機の操縦士はあこがれの職業としても、いささか遠い。言いたいのは、運転士は、子ども心にも、専門職として誇りの持てる職業であったということである。

 そのことが、少し揺らいでいないか。現に運転士になった人材としても、自分の仕事に誇りと自負を持つことがむずかしいという状況になっていないだろうか。JR西日本では、運転士になるための社内試験の合格率は6ないし7割という。競合私鉄が2割程度であるのと比べて「広き門」という指摘がある。その職業に就くことの困難さも、誇りの高さと比例する部分もあるのではないだろうか。運転士になってからも、ミスがあれば「日勤教育」を受けさせられる。その「教育」で課される反省文書き、草むしり業務といった懲罰的対応は、受講者たる運転士に必要以上の屈辱感を与える。いずれも、職業としての誇りを持ち続けるのには、妨げとなる事象である。

 こういった人間的な面も、職業の適正な執行においては、小さくない影響を与える。「人間的な面」と書いたが、鉄道を利用する側としても、運転士という生身の人間の人間的な部分も安全性を実感するための重要な要因であることを忘れてはならない。「この鉄道路線は、ATSなど安全制御装置で守られているから大丈夫です」というだけでは、十分ではない。航空機に乗ると、機内の乗客に対して操縦席から操縦士のあいさつが流れてくることがある。落ち着いたあの肉声に接すると、なんとなく安心感を覚えるのは、多くの人が経験していることだろう。

 通勤電車の運転士も、車内にそういったあいさつを流せというのではない。ただ、利用者とすれば、命を託する運転士が、それにふさわしい責任感と誇りをもって業務にいそしんでいることがわかるような、そういった部分も必要であることだけはわかる。今回の事故から学ぶことの中には、専門職としての運転士の人間的な側面というものがあるような気がしてならない。



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