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月刊年金時代2011年6月号
新・言語学序説から 第89

「伝える技術について」

 人にものを伝えるということ、相手が一人であっても、大勢であっても、同じことである。伝えたいことがあり、それをきっちり伝えたいという強い思いがあれば、必ず伝わる。必要なのは、技術ではなくて、強い思いである。まずは、このことから出発しなければならない。

 まずは、伝え方として拙劣なものから始めよう。原発事故について、東京電力の社員による記者会見は、テレビで時々刻々生中継され、国民みんなが固唾を呑んで見守っていた。その記者会見、特に早い時期の記者会見が、わかりにくかったし、聞いていてイライラすることが多かった。前回も一部を引用したが、「2ページ目のこめじるしのところを見てください」から始める記者会見は、すでにして、その時点で×である。

 記者会見にあたる社員が、そのペーパーを読むということが中心の記者会見では、状況を的確に伝えようという意志が感じられない。伝える内容をきっちり理解していれば、ペーパーを読むのではなく、頭を上げて、記者たちを見ながら語りかけるという形になるはずである。「ああ、こいつよくわかってないな」と思われてしまっては、聞く側の信頼感をつなぎとめられない。

 甲子園の高校野球の開会式、毎回、選手宣誓が行われる。高校球児の代表が、原稿を読みながら宣誓するのを見たことがあるだろうか。宣誓の内容を忘れてしまう恐怖感もあるだろう。かといって原稿を読むのでは、熱き思いは伝わらない。少々とちっても、言いよどんでもいい。自分の言葉で、訴えることが、選手宣誓の意義であるので、どうあっても原稿に頼ることはできない。

 とちったり、言いよどんだりするのを恐れるということでは、結婚式でのあいさつもそうである。祝辞を求められて、あらかじめ用意してきた原稿をやおら取り出して読み始める。とちりも、言いよどみもないだろうが、新郎新婦はもちろん、同席している人たちの感動を呼ぶこともない。お祝いの思いを伝えたいのでしょう、だったら、原稿に頼らない生の言葉で、話すべきである。

 伝える技術というのは、聞いている相手が話の内容を正しく理解できるように、わかりやすく語る方法ということである。技術的、専門的な事柄を、非専門家に話すときには、わかりやすさを特に意識しなければならない。原発事故についての記者会見では、理解困難な事象が、専門用語、難解な数値を伴って説明されるが、「我々も状況は把握していません」という「注釈」つきである場合が多く、非専門家の我々はなかなか理解できない。テレビで解説する学者、専門家の話は、我々の理解力を超える内容が多く、とまどいが残る。これは、やはり伝える技術の問題である。

 原発事故についての解説では、NHKの水野倫之解説委員がとてもわかりやすい。声がいいというのも、大事なことである。歯切れのいい標準語もプラス評価である。むずかしい事象を、図柄も使いながら、専門用語をあまり使わずに説明する。「なるほど」と思ってしまう。単に解説するだけでなく、時々水野さんの個人的な見方、評価、批判のようなものも披瀝されることがあり、「この人はよくわかっているな」という信頼感を生むことにつながっている。

 専門的なことをわかりやすく、信頼感も与えながらということでいくと、医療におけるインフォームド・コンセントが頭に浮かぶ。私がATL(成人T細胞白血病)という病を得て、入院治療に入る際に、インフォームド・コンセントを求められる立場にあった。「説明を受けた後になされる患者の同意」ということであるが、自分の病気がどういうものであるのか、どういった治療が必要か、その治療に伴うリスクはどのようなものか、予後はどういったことが予想されるか、そういったことを担当医師から説明を受け、そのことを理解したうえで、治療を受けることに同意する、又は同意しないということになる。

 結果として、私は同意し、入院治療に入ったのであるが、それは説明がわかりやすかったこともあるが、説明にあたった医師を信頼したからである。つまり、医師の説明ぶりが私の信頼を得たことになる。伝える技術とは、こういったところまで含むものである。

 私が宮城県知事をしていた時、女川原子力発電所で放射線漏れの「事故」があった。「事故」とカッコ書きにしたのは、東北電力としては、その事象があったことは事故としてとらえるほどの深刻なものではなく、公表しなかったからである。そのことがわかって、マスコミから散々叩かれたのであるが、これは東北電力がまちがっている。つまり、公表した事象がたいしたことないと判断するのはマスコミ、マスコミを通して知らされた住民であって、それを事前に査定してしまう態度は、それ自体が批判の対象である。

 似たようなことが、福島の原発事故でも起きている。放射能の影響予測データを政府が公表しないことについて、「事故直後に公表して住民がパニックになるのを恐れた」と言明しているが、これは「伝える技術」以前の問題として重大なことである。何を伝え、何を伝えないかの判断はむずかしいが、「伝えない」ということは、住民にとっては、政府が情報を隠しているという不信感につながる。パニックに陥るよりも、この不信感のほうが、大きなマイナスである。パニックは、データを公表する時に、そのデータの意味合いを正しく伝え、さらには、住民がとるべき行動についても的確に示すことで避けられる。これこそが、伝える技術である。

 最後に、究極の伝える技術、伝えることの大切さについて。大津波が宮城県南三陸町を襲った時、南三陸町の危機管理課職員の遠藤美稀さんは庁舎から防災放送を続けていた。「津波が襲ってきます。すぐに高台に避難してください」。それを聴いた多くの町民は避難して助かったが、最後まで放送を続けた遠藤さんは、庁舎を襲った津波に流され、命を落とした。遠藤さんが命がけで、伝えたことによって、多くの住民の命が救われた。合掌。


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