浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

月刊年金時代2009年1月号
新・言語学序説から 第77

「首相のことばについて」

 07年の11月号に「政治家の言葉について」を書いた。それで、書くべきことは書いしまったと思っていた。ところが、改めて、政治化の言葉について、格好の話題が提供されているのに気がついた。麻生太郎首相のことである。

  まずは、漢字の読み間違えが話題になった。未曾有を「みぞゆう」、頻繁を「はんざつ」、踏襲を「ふしゅう」といったものである。一番驚いたのは、詳細を「ようさい」と読んだこと。首相のこれまで60何年かの人生で、これが正される機会が一度もなかったのだろうか。とても不思議である。

 この漢字読み間違えは、酒席では最高の肴である。しかし、これが一国の首相によるものとなると、笑ってばかりはいられない。漢字の読み方を誤って覚えていただけでなく、知的水準一般に問題があるのではないかと思わせられるからである。

 麻生首相は、失言も連発であった。「医者には社会的に非常識な人が多い」、「たらたら飲んだりして病気になった人のために税金を払うのはどうか」、「水害の発生は名古屋でなくて、岡崎あたりでよかった」などなど。首相就任前から、失言癖は指摘されており、本人も気をつけていたはずなのに、これである。

 前言取り消しも、麻生首相には、ついて回った。定額給付金に所得制限をつけないと明言したのを取り消し、道路特定財源の地方配分1兆円を地方交付税と言ったのを交付金に変更、郵政関係民間会社の株式売却凍結についての言い直しなどなど。政策の内容を正しく理解していないために勘違いしたり、まだ決定していない事項を生煮えのままで発表したりということが原因である。

 失言はともかく、漢字の読み間違えについては、近くにいる秘書などが指摘すれば直せるのではないかと思うのは、秘書の立場を理解していない人である。秘書から見れば、生殺与奪の権を持っているようにも思える上司である。「それ、読み方間違っています」などと、注意できたものではない。

 その点、私の知事時代に、初代の秘書を務めたM君は出色だった。私が、県議会での初めての施策説明演説の際に、「水辺」を「すいへん」と読んだ。M君は、その後、「知事、あれは、わざと『すいへん』と読んだのでしょうか」と聞いてきた。「ああ、そうだな、『みずべ』と言ったほうがいいいんだよな」と私は答えたが、これで、私のプライドは傷つかないで済んだ。

  この時期、首相の言葉ということに敏感にならざるを得ないのは、アメリカのオバマ新大統領の演説が、あまりに素晴らしいことと、どうしても比較してしまうからである。大統領選挙に勝利した直後のオバマ演説の日本語訳の一部を読んだだけで、思わず、涙が出てしまうほどに感激させられた。言葉の力は、そのまま、それを発するリーダーの力に結びつく。生来の演説上手が、2年近くに及ぶ大統領選挙の中で、ますます磨きがかけられたということだろう。

  アメリカの大統領選挙では、国民の魂に訴えるような演説もできないような候補者は、早い段階で淘汰されてしまう。ライバル候補者との言葉の応酬でも、相手方を圧倒しなければならない。演説を聴く側の耳も感性も肥えているから、ごまかしがきかない。

  実は、演説のうまい下手は、話し方教室に通ってどうにかなるようなテクニックの問題とか、場数を踏めばなんとかなるといった経験の蓄積によるものでもない。中身が勝負である。つまり、話すべき内容があるかどうか、その中身を深く正しく理解しているかにより、ちょっとした受け答えから大演説まで、その出来が決まってしまう。

  今、麻生首相の言葉のことを話題にしているが、単なる漢字の読み方や演説テクニックのことを言っているのではない。秋葉原での演説では、若者を中心とした聴衆の心をわしづかみにしてしまう首相である。演説はうまいと自負していることだろう。しかし、首相の演説が若者に受けてしまうとしても、首相の言葉の問題が合格点になるわけではない。

  普通の人の結婚式でのスピーチなら、こんなことを言わない。首相の言葉を槍玉に挙げているのである。話すべき内容があるか、中身を理解しているかということが、きわめて重要である。その点で、麻生首相の言語能力に、高い点数はつけられない。完全には内容を理解しないままに政策について語るので、後で間違いを訂正しなければならなくなる。最終合意に至らない時点で、政策の方向を話してしまうので、違う結論に達した時には、これまた訂正である。トップの言葉の重さを考えれば、相当慎重にならなければいけないのだが、受け狙い、又は、サービス精神旺盛過ぎて、言葉が走ってしまう。

  麻生首相は、マンガ好きであることを隠さない。誇らしげでさえある。庶民派、世情に精通しているという印象を植え付けると考えているらしい。「新聞なんて読まない」という発言も、新聞の論調に左右されるようなことはないことを強調したいためのものだろう。しかし、どちらも、一国の首相としては、恥ずかしい部類に属することであって、決して自慢すべきものではない。

  宮城県知事を辞めて、久しぶりに首都圏で暮らすようになり、電車内の風景を眺めた時に気になったことがある。携帯メールを読み耽り、イヤホンからの音楽に没頭し、堂々とマンガを読んでいる人が何と多いことか。大の大人が、満員電車の中でマンガ雑誌を広げるのは、私の感覚からすれば、とても恥ずかしいことである。麻生首相の言は、その恥ずかしさに通じた。

  新聞にきっちり目を通し、活字で埋まった書籍をしっかり読む。その合間にマンガを目にするのなら、庶民的な首相という図柄になる。漢字読み間違いから見えてくるのは、違った図柄である。

  麻生首相のあのダミ声がなんとかならないかと嘆く人もいる。坊主憎けりゃの類だろうが、声も言語表現の大事な要素だとすれば、ボイストレーニングも必要になるのだろうか。


TOP][NEWS][日記][メルマガ][記事][連載][プロフィール][著作][夢ネットワーク][リンク

(c)浅野史郎・夢ネットワーク mailto:yumenet@asanoshiro.org