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月刊年金時代2008年10月号
新・言語学序説から 第74

「関西弁について」

 関西弁は、不思議な言葉である。日本中にたくさんの方言がある中で、関西弁は方言ではなくて、第二標準語といった位置を占めているらしい。方言は、しゃべっていて、なにがしかの恥ずかしさを伴うものだが、関西弁は、関西以外のどこの場所でも、堂々と使われる。

 毎週木曜日、読売テレビの「ミヤネ屋」という昼の番組に出演している。司会の宮根誠司さんがしゃべる言語は、関西弁である。アナウンサーだから、標準語もしゃべれるのだが、番組ではふつうに関西弁をしゃべる。仙台のローカルのテレビ番組では、アナウンサーは仙台弁を使わない。それは、九州でも、四国でも、基本的には同じことである。関西弁だけは、天下御免の様相である。これが不思議。

 この連載の初期の頃に、「方言について」を書いた。その中で、テレビの影響か、方言が日本からどんどん消えていっていることを指摘した。そもそも、二十歳以下の人間は、その土地に育っても、その土地の方言をしゃべらない。しゃべれない。私の育った仙台でもそうで、私たち還暦組は、正統派仙台弁を使いこなすが、若い人たちの間では、そうはいかない。

  ところが、大阪では、小学生だって、若い人だって、みんな関西弁をしゃべる。学校の先生も、関西弁で授業するのが主流のようである。これって、よそから見ると、かなり不思議である。

  関西育ちの人の中にも、標準語と関西弁がバイリンガルの人と、基本的に関西弁で通す人と、二通りある。「ミヤネ屋」でご一緒する秋野暢子さんは、大阪の生まれ、育ちだが、バイリンガルのほうである。しゃべらせれば、正統派の標準語を使いこなす。しかし、相手によって、状況に応じて、関西弁も出てくる。出し入れ自由な関西弁である。一方、関西のお笑い系の芸人さんは、標準語では基本的に話さない。関西弁の中でも、こってりした、そのものずばりの関西弁を話す。島田紳介さんの司会も、あれが標準語だったら、全然ちがってくる。面白さは、ほとんど飛んでしまうのではないか。和田アキ子さんは、標準語も話すことがあったような気がしたが、あのドスのきいた関西弁でないと、迫力が出てこない。

  迫力と言えば、関西弁には、独特の迫力がある。厚生省の役人をしている頃、年間、100回近く陳情対応している時代があった。その中で、関西弁で陳情にやってくる団体があって、これがものすごく迫力があった。「どないなってるんや」とリーダーが迫ると、一緒のメンバーの中から、「なめたら、あかんで」といった合いの手が入る。これが標準語では、よほど迫力はなくなるのだが、関西弁ならではの怖さのようなものがあった。

  その逆のこともある。関西弁で「アホ」というのは、標準語で「バカ」というのと、だいぶ違った感じである。「アホ」のほうがかわいらしいというのか、やわらかい。「おまえ、アホちがうか」というのと、「おまえ、バカじゃねえのか」では、前者のほうが、断然やわらかい。言われたほうも、叱責というより、親しみを感じる言い方である。これも、関西弁の不思議なところである。

  関西弁と書いてきたが、念頭にあるのは、大阪弁のことである。関西弁の中には、京都弁も和歌山弁もある。一緒にするなと言われそうである。京都弁の「はんなり」というのは、大阪弁ではなんと言うのだろう。大阪弁の「いらち」というのは、和歌山弁でも同じなのだろうか。

  関西弁とひとくくりに言ってしまうことは、東北地方の方言をすべて東北弁と決めつけてしまうことと同じである。仙台弁の私には、大いに抵抗がある。同じ東北同士でも、本気で津軽弁をしゃべられたら、仙台の人には、ほとんど聞き取れないだろう。仙台弁はズーズー弁ではない。「知事に頼まれて、築地の地図買いに行く」が、「ツズに頼まれで、ツツズのツズ買いに行く」になったりはしないのだが、勿来の関から西の人は、東北弁といったら、みんなズーズー弁といって、一緒くたにするのだろう。それでは、困る。

  とは言いながら、勿来の関の東で育った私とすれば、大阪弁と京都弁、和歌山弁の区別なんて、全然つかないのであるから、人のことは言えない。それにしても、仙台弁を含む東北弁と、大阪弁を含む関西弁の方言としての位置づけは、あまりにも違うと思わざるを得ない。東北弁、ズーズー弁は、喜劇映画で伴淳三郎、若水ヤエ子、由利徹などが、観客を笑わすための道具として使われてきた。内容でなく、言葉それ自体が笑いの対象となるというのは、どこか、屈辱、恥というものにつながる。

  18歳で仙台から東京に出てきた浅野史郎青年は、自分の仙台弁は、東京では使ってはならない言葉と認識するのに、時間はかからなかった。同じ仙台の仲間とならともかく、それ以外の出身の人としゃべる時に、仙台弁では恥ずかしい。仙台弁は、福島や茨城、栃木ほどではないが、無アクセントの方言であるから、発音よりも、アクセントの矯正が先である。そもそも、アクセントという概念自体がない方言で育っているのだから、それがむずかしい。ともかく、方言は直すべきもの、恥ずべきものということで、私の第二の言語生活は始まったのである。

  それにひきかえ、関西弁はいいなと思う。うらやましい。東京の人を相手にしても、堂々としゃべっている。誇りにさえ思っているようにも見える。仙台弁を直すのに苦労した私から見れば、なんだか不公平、不条理にさえ思えることがある。

  関西弁をうらやましく思ってはならない。むしろ、日本国中、方言というのが、関西弁と同じ待遇を受けるべきなのかもしれない。沖縄に行った時聴いたラジオで驚いて、感動したのを思い出す。ある番組が、すべて、ウチナンチュー、つまり、沖縄方言で放送していたのである。聴いていても、もちろん、何を言っているのかまったくわからない。外国語の放送以上にわからない。でも、そういうのって、アリだと思った。

  関西弁の話から、少し、脱線してしまった。


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