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月刊年金時代2008年6月号
新・言語学序説から 第70

「新聞について」

 私にとってだけでなく、多くの人にとって、新聞は空気みたいなものである。その必要性は、ふだんはあまり意識しないが、なくなってみると、大事さがわかる。新聞休刊日とか、外国に行って、日本の新聞が手に入らない時など、何かがすっぽり抜けたような気になる。

 思い起こしてみると、私はずいぶん早い時期から、新聞に親しんでいたような気がする。父親が読んでいるのを、横から眺めていた頃から始まって、小学校に入る前には、実際に新聞を読んでいた。漢字を覚えたのは、新聞からだった。小さな子どもにしては、結構むずかしい字や表現を知っていたようである。

 その頃のわが家で購読していたのは、朝日新聞。父親がアンチ巨人だったから、読売新聞を取らなかったというわけではなく、インテリを志向するのであれば、朝日新聞を読むのがあたりまえという感覚だったと思う。まわりでは、仙台の地元紙である河北新報を購読している家庭が多かったが、読むなら全国紙というこだわりもあったらしい。

 宮城県知事を務めている時には、朝日、毎日、読売、日経の全国紙プラス地元の河北新報を自宅で購読していた。出勤前に全部を読むのは不可能であるが、職業柄、河北新報はじっくり読んでいたし、全国紙では地方版に真っ先に目を通す習慣だった。この時期から、私にとっては、新聞は読むだけのものではなくて、取材を受けたり、報道されたりするものに変わっていった。

 知事経験者に聞くと、自分についての新聞の報道ぶりに腹立たしくなる経験が多いようであるが、私に関して言えば、そういう経験はほとんどない。前にも書いたような気がするが、新聞は悪口を書くのが使命であって、新聞が知事や政治家をほめるようになったら、世の中おかしくなるというぐらいの認識は持っていた。現職知事時代、私を批判するような記事を読んで、妻は怒っている。それを横目に見て、平然としている私に対して、「あなたは人間ができているのか、鈍感なのか」と妻に言われたことが何回かある。決して人間ができているわけではない。「新聞なんて、そういうもんさ」と思うだけのことである。

 一度だけ私が怒ったのは、私の政治資金の使い方について、事務的にも実質的にも、まったく問題ない経緯なのに、それをとらえて、「情報公開の浅野なのに、説明不十分」といった署名記事を書いたQ記者に対してであった。この経緯なるものは、警察が私の銀行口座の取引経緯を私に無断で銀行に書類請求して持っていき、その情報を某新聞記者に漏らしたことから明らかになった。これが取材源ということを、私は知っていた。Q記者には、私の口から、このことも教えておいたにもかかわらず、こういう記事を書くから、私は怒ったのである。

  これには、後日談がある。Q記者は、その後、千葉支局に転勤になり、知事を辞めていた私のところに、千葉県内での談合問題へのコメントを求めにきた。しつこい私は、この昔話を持ち出して、さらにQ記者をいじめたのであるが、彼が、私が教えている慶応大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の卒業生ということを知って、「そうか、そうか」と仲直りした。もっとも、私が怒っているの知りながら、千葉から仙台まで取材にやってきたQ記者の根性には感心していたので、SFCの卒業生だからというのは、つけたしである。

  その慶応大学SFCで、今学期から、「マスコミ像の解剖―マスコミの権力と限界」という研究会(ゼミ)を受け持っている。SFCには、マスコミへの就職志望の学生が多く、定員35名のところに履修希望者が58名も来てしまった。この研究会に来ている学生の中にも、新聞はほとんど読まないというのがいるが、それ以外の私の授業を履修している学生は、新聞を読まないのがほとんどであることに、改めて驚いてしまう。若者の新聞離れが、ここSFCでも例外でないということなのだろう。

  新聞を読まない理由を学生に聞くと、インターネットで十分わかるからという答が返ってくる。新聞はお金がかかるが、ネットならただということもあるのだろう。確かに、インターネットのニュース記事は、ただで手軽に読めるし、速報性もあるが、それで十分とはとても思えない。SFCで教えている限りは、学生に新聞を読む習慣をつけさせることが、私の使命とも思いつつ、授業の中で、「新聞記事から拾って来い」と言う宿題を出すことも含めて、手を変え、品を変え、新聞への興味を掻き立てている。

  新聞を読めばいいということではない。読み方も大事である。書いてあることをすべて真実と思い込んでしまってはならないことも、教えていかなければならない。新聞読み比べも必要である。最近は、朝日新聞と読売新聞の論調が、話題によっては、かなり違っている傾向が強いので、学生にも興味を持たせることができる。そういう教え方をしている中で、私自身も勉強になることが多い。

  冒頭に、「新聞は空気みたいなもの」と書いたが、この場合の「空気」とは違って、「空気を読めない」とか、「こういった空気が流れている」という使われ方をする場合の「空気」を、新聞が作っていることも、要注意である。「世の中の大方の見方がこうなっている」という感じで新聞は報道するが、それが客観的事実かどうかは、そう簡単にはわからないはずである。新聞自身が、主観的に望んでいる状況を、「世の中の大勢」といったことで読み取られるように、報道の中に忍び込ませる手法がある。そういった主観・客観入り混じりを、書き手が意識していない場合があるので、余計に厄介である。鋭い読み手にならなければ、新聞が作り上げている「空気」に飲み込まれてしまう。

  英語では、そのものズバリで、「ニュース・ペーパー」と呼ぶ。昔は、「瓦版」と言ったものだが、これはニュース・ペーパーに近い表現である。なんで、「新聞」は「聞く」という字を使うのだろうか。ラジオの最新ニュースでもあるまいし。「言語学」を冠しているエッセイだから、そんなことにも無理やり触れながら、新しくもない話を終える。


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