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月刊年金時代2008年5月号
新・言語学序説から 第69

「メールについて」

 「携帯」と言えば、携帯ラジオも携帯灰皿もあるのに、今では、携帯電話のことを指す。「ケータイ」とカタカナで書けば、間違いなく携帯電話のことになる。「メール」と言えば、郵便のことなのに、最近では、「電子メール」のことを意味する。昔はEメールとか呼んでいたが、今では、「メール」で済ましている。言葉にうるさい私とすれば、まだ、なじめない。

 そのメールの話。宮城県知事の仕事を終えて、東京方面に戻ってきて、電車に乗り始めたころ。乗客の半分が、携帯電話の画面でメールを読んでいる。中には、指を驚くほどの速さで動かして、メールを発信しているものもいる。同じく、乗客の半分が、耳にイヤホンを装着して、音楽を聴いている。四分の一は、メールを見ながら音楽を聴いている勘定になる。これが、私にとって、カルチャーショックであった。背広にネクタイの男性が、恥ずかしげもなく、車内でマンガ雑誌を読み耽っている姿にもショックを受けたが、このことについては、また別な機会に論じたい。

 今の若者たちは、携帯電話がなければ、夜も日も明けない。ケータイは、電話で話をするだけの道具ではない。もちろん、メールのやりとりもあるが、そのほかに、写真が取れる、その取った写真をメールで送れる。音楽をダウンロードして、それをケータイで聴ける。キャッシュカード代わり、切符代わりにもなる。GPSによる位置確認も可能である。いったい、どこまで機能が拡がるのか。永六輔さんから聞いたジョークに、「今年じゅうには、たぶん、ケータイで電話もできるようになると思うよ」というのがある。そもそも電話で始まったケータイの機能が、忘れられるほどに、他の機能が幅を利かせているということである。

 ケータイが普及して困るのは、公衆電話の数が激減したこと。そのうち、家庭内の固定電話がなくなってしまうのだろうか。「おじいちゃんが子どもの頃にはね、電話機は線でつながっていたんだよ」「うそだー」という会話が交わされる時代がやってくるだろう。いやいや、今回は、ケータイではなくて、メールの話。

 メールの語源(というのもおかしいのだが)である郵便のやり取りは、最近、郵便事情がよくなったとはいえ、相手に届くのに一日かかる。そんなまだるっこしいことでは、この忙しい時代には間に合わない。ファクシミリ(私は「ファックス」とは略さない)でのやり取りなら瞬時だが、受発信の機械を持ち運ぶことは、現実的でない。ケータイなり、パソコンでのメールなら、郵便と違って瞬時に相手に届くし、ファクシミリのように紙がいらない。受信がその場でできなくとも、溜めておいて、いつでも見ることができる。保存も消去も、自由自在である。

 そんな便利さだけではない。メールは、郵便やファクシミリの代わりというよりは、対面での会話の代替手段になっている。電話で話すと、相手の言葉にすぐに対応しなければならないが、メールなら、自分が気の済むだけ時間を置いて返信できる。なんなら、返信しないで放っておいてもいい。相手を目の前にしての会話では、相手の言葉によっては、傷ついたり、気まずい雰囲気になったりするが、メールではその辺の心理状態まではあらわにならない。気が楽である。

 どうも、この辺が、メールの「人気」の秘密ではないか。そう考えると、この人気には問題ありとも言える。つまり、リアルタイムでの対話によって、人間関係は鍛えられるのだが、メールがそれを代替することによって、その契機が失われてしまうことにならないかということである。確かに、人間関係が濃密になれば、会話の中で傷つくこともある。しかし、それをどのように乗り越えていくか、その過程において人間は成長する。 相手の言葉に、その場で、即座に対応する反射神経が養われるのも、対面での会話によってである。メールでの一拍置いての反応を取るのに慣れてしまうと、音声言語が発達しないだけでなく、会話での運動神経が発達しない。リアルタイムの会話が、動いているボールを打つ野球だとすれば、メールは止まった球を打つゴルフにあたる。ゴルフと野球で、どちらが反射神経を必要とするか、考えるまでもない。

  メールには、もっと大きな問題がある。誹謗・中傷がたやすくなされることである。相手の顔を見ないで送りつけるのは、面と向かっての痛罵より、送り手のリスクは小さい。ただ、受ける側のダメージはメールの場合も相当に大きいし、文面として残るだけに後を引く。さらに深刻なのは、メールが匿名でなされることである。送りつけるほうは、やりたい放題。闇夜で石をぶつけるのに似て、自分は傷つくおそれなく、相手を大きく傷つけられる。言葉の暴力は、時として、肉体の暴力よりも傷は大きく、回復は長引く。

  メールのやりとりは、低学年化が進行中である。学校でのいじめが、メールでの言葉の暴力という形をとる。加害者が特定できないだけ、物理的な暴力などよりたちが悪い。集団でのメール攻撃も加われば、被害者の心の傷はいかばかりだろうか。

  かく言う私も、ケータイでのメールはやらないが、パソコンでのメール受発信は、生活上なくてはならない。アポイントの作成、原稿の送付など、メールがなかったら、相当に不便する。諸方面からの連絡も、メールを通じてなされる。パソコンが故障して、一時期、メールなしの生活を強いられたが、その際には、生活が立ち行かなくなる恐怖を感じるほどであった。 だから、メール害悪論をここで説いているのではない。今や、空気のように、なくてはならないものに近い存在になっている。何でも同じであるが、メールも使いようである。うまく使えば、これほど便利なものはない。上手に使え、過度に頼るな、ましてや中毒になるな。そして悪用するな。この程度のことなら、誰でも言えるなと思いながら、今回も駄文を終える。これへの批判を匿名のメールで送りつけるのは、勘弁して欲しい。


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