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月刊年金時代2007年2月号
新・言語学序説から 第56

「ケータイについて」

 携帯電話というものは、我々の生活にいつごろから入り込んできたのだろう。若者はほとんど持っている。小学生でも、持っている子が増えているらしい。一方で、私の母も、妻の母も持っていない。使ったこともないらしい。彼女らは、携帯電話なしの生活になんの不便も感じていないのだが、若者たちは違う。ほんの一昔、二昔前には、携帯電話を持っている若者などいなくて、もちろん、彼らの生活はなんの不自由もなく回っていたのに。

 こう書いていて、唐突にトイレのことを連想してしまった。子どもの頃は、ボットン便所しかなかった。5歳の頃、上京の機会に、生まれて初めて水洗便所というものを経験した史郎少年は、トイレで紐を引っ張ったら、水が止まらなくなり、怖くて泣き出してしまった。ボットン便所のほうが、怖くなくていいと思ったものである。

 それが水洗トイレになり、腰掛け型の洋式トイレになった。その途端に、和式トイレでの用便ができない身体になってしまった。次に洗浄機能付きのトイレである。使い慣れたら、シャワーなしのトイレにものすごい抵抗を感じるようになった。海外旅行で一番困るのは、洗浄機能付きが部屋についていないこと。慣れは恐ろしい。

  新幹線ができて、在来線での旅行がまどろっこしくてできなくなってしまったのも同じ。もっとも、新幹線開業と同時に、JRは在来線の列車運行を激減させたので、使いたくとも使えなくなってしまったのだから、選択の余地がそもそもなくなったのである。

 携帯電話に話を戻す。まずは、呼び名である。「携帯」と言えば、携帯ラジオも携帯灰皿もあるのに、最近では、「携帯」と言えば携帯電話のことになってしまった。しかも、「携帯」ではなく、「ケータイ」という語感で語られている。この稿では以後、「ケータイ」と書くことにすることをお許しいただきたい。

 知事を辞めて、仙台から東京に出て行く機会が増え、電車に乗ることも多くなった。そこで一番目についたのが、ケータイでメールチェックする人間がやたらに多いことである。一人で乗っている若者の半分は、ケータイの画面に見入っている。老眼になったオジサン、オバサンまでもが、手を一杯に伸ばしてケータイの画面をにらんでいる。これまた一人で乗っている若者の半分が耳にイヤホンを入れて音楽を聴いている。電車の中でまで音楽を聴かなくたっていいだろと思うのだが、忙しい連中である。

 ついでに言えば、大の大人が電車の中でマンガを読みふけっている風景にも、大きな違和感を覚えた。恥ずかしくないのか、みっともなくないのかと意見したくなる。これについては、いずれ改めて書いてみたい。 電車の中での飲食、化粧。みっともないものだらけの電車内である。日本はいつからこんなに品のない国になってしまったのか、国家の品格はどこに行ったのかと、机をどんどんと叩いて怒りたくなってしまう。

 話がまたまた脱線気味である。ケータイに戻そう。ケータイ以前でも、長電話というのはあった。しかし、一家に一台しかない電話だから、あまりの長電話だと、家族の他のメンバーから文句が出た。今や、ケータイは一人一台。通話料金での限界はあっても、家族からのストップはない。固定電話と違って、どこからでもかけられる。ということは、いつでも、どこでもかかってくる。これを便利ととるか、わずらわしさととるか。

 ケータイは便利。電話をしたい時に、公衆電話を探す手間がいらない。だから、公衆電話を使う人が減り、公衆電話の設置数が減ってしまった。ついでに、テレフォンカードなるものの人気ががた落ちした。 ケータイは、便利さばかりが目立つが、それで失ったものはないのだろうか。テレビが普及して以来、テレビなしの生活は考えられなくなったが、テレビの導入は食卓での団欒、家族の会話を奪った。それと同様に、ケータイの普及により、相手の目を見ながらの会話が減ったというのは、言い過ぎだろうか。

 日本では、電車内でのケータイでの通話は禁止されている。心臓にペースメーカーを入れている人にとっては、近くで会話される時に発せられる電波で、ペースが狂ってしまう恐れがあるからというのはわかる。それ以外には、ケータイでの会話の音声が周りの迷惑になるほどうるさいというのが理由として挙げられる。それなら、「車内での大声での会話はご遠慮ください」でいいのではないか。むしろ、列車内の宴会もどきの大騒ぎや、おばさん(に限らないが)たちの騒音に近いおしゃべり、若者(に限らないが)たちのキャアーキャー、ギャーギャー会話など、禁止してもらいたいものは一杯ある。

  ケータイでも、電車内でひっそりしゃべる分には、迷惑にならないからいいのではないかと思うのだが、車内のみんなは、結構この禁止令を守っている。中国から来た学生が、「中国では車内でもケータイかけ放題なのに、日本ではみんなマナーを守っている」と不思議そうに言っていたのを思い出す。

  言語学を論じている立場から最も気になるのは、ケータイの普及は日本人の言語能力にどう影響しているかということである。私の直感は、悪影響ありのほうである。もちろん、使用頻度にもよる。テレビを一日5時間以上視聴している人と、1時間の人とでは、テレビの影響力はまったく違うのと同じように、ケータイを一日3時間以上、ケータイメールを30本以上などという人にとっては、言語能力は改善するのではなく、減退するはずだと私は思う。その根拠を挙げよと言われても困ってしまうのだが。

 ケータイは話をするためだけの道具ではない。カメラにもなる。電車に乗れる、コインロッカーを使える、買い物ができる。使い方は無限に近いようである。だからこそ、永六輔さんから聞いたジョークが生きてくる。「ケータイって、いろんなことができるようになっているね。今にね、ケータイで電話ができるようになるかもしれないよ」。


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