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月刊年金時代2007年1月号
新・言語学序説から 第55

「見栄について」

 見栄は張るものである。「ミエッパリ」と言えば、実際以上に自分を立派に見せたがる人のこと。自慢屋さんとは違う。「自分はこんな大学を卒業して、こんなにお金を稼いでいて、妻はこんなに美人で・・・」というのが自慢屋さん。前々回の「モンダの人々」で紹介した、東海林さだおさん言うところの「ドーダの人々」がそれである。声には出さないが、いちいち「ドーダ」と言わんが如く自分の偉さ加減を触れ回る人のことである。

 ミエッパリというのは、「ドーダ」と胸を張る自慢屋さんと違って、威張るのではない。自分自身に見栄を張るというのだってある。自慢屋さんというのは、相手にするといやな存在だが、ちょっとしたミエッパリなら、可愛いもんだということもある。そして、人間は、多かれ少なかれ見栄を張るものであり、この人、今、見栄を張ってるなという相手には、好意を感じたり、理解を示すことが多いのである。

 ちょっとした見栄なら、誰だって張っている。結婚式でご祝儀を能力以上に包む、歩いていけばいいところにタクシーどころか高級車で乗りつける。そもそも、女性がお化粧に励むというのだって、能力以上に外見を見せたいという見栄張りそのものである。

 学生の頃の思い出話。下宿先のすぐ近所の焼き鳥屋さんのオーナーが引退して、オバさんに店をやらせるということがあった。そのオバさんは、昔、水商売のお店に出ていた人らしい。焼き鳥屋を任されてしばらくした頃、そのオバさんから、昔の仲間にあいさつに行くからといって、同行を頼まれた。昔の水商売仲間がやっている店を何軒か回る。オバさんは、「今度、私もお店を持つことになったから」と元同僚にあいさつをしながら、かなり派手に飲んで、チップをはずんでいた。私はオバさんを「ママ」と呼ぶことになっていた。

 焼き鳥屋のオバさんではなくて、「ママ」と呼ばれるような店を持ったと、昔の同僚に報告したいのだなということはわかった。どこにある、何という店かということは、オバさんは言わない。ただ、「店を持った」というだけ。これが見栄なんだなということは、青二才の私にも理解できた。見栄を張るということは、ちょっぴり哀しいにおいがする。それでも、見栄を張るからこそ、明日からもがんばれる。そんなことを知った。

 2004年10月号に書いた「英語の歌について」で紹介したが、カーリー・サイモンの「うつろな愛」という1972年のヒット曲の原題は、You are so vain である。Vainには、「空しい」、「空虚な」という意味もあるが、「あなたは皆既日食を見に、自家用の小型ジェット機で(カナダの)ノバ・スコシアに向った」、「サラトガ競馬場では、あなたの馬が勝った」という歌詞を読めばわかるように、ここでは「ミエッパリな」という意味で使われている。だから、「うつろな愛」では、まるっきり意味が違ってしまうという典型的な誤訳なのである。この曲を「ミエッパリ」とか「自惚れやさん」としたら、レコードが日本でもっと売れたかもしれない。

 今の続きで言えば、vain の名詞形はvanity であって、vanity mirror と言えば、曲面になった鏡のことで、これに自分の姿を映したら、何割か美しく見えるというものである。デパートの試着室や美容院では、鏡の面が少し凸だか凹になっていて、実物よりほっそり見えるらしい。日本語では「うぬぼれ鏡」。これだって、「能力以上」という見栄に通じることである。なにやら、ここで私は知識をひけらかしたようである。これは見栄ではなくて、自慢のたぐい。

 介護保険の要介護認定の場面で、よく見られる現象がある。介護保険に基づく介護を受けるためには、介護を必要とする状態にあるかどうか、本人にあたって調査が行われる。自分で食事が摂れるか、食事の支度ができるか、掃除、買い物ができるかなどなど、細かい項目について調査がなされる。担当者の質問に対して、対象となる高齢者は、本当はできないことも、「できます」と答えてしまうことが多い。周りに家族がいると、家族は「おばあちゃん、食事の支度はできないといって、いつも作ってもらっているじゃないの」と口を出す場面も出てくる。

 これも、おばあちゃんにとっての見栄と言えば見栄である。家族は困ってしまうのだが、おばあちゃん本人とすれば、見栄というより、自身の尊厳の問題なのだろう。「できない」と言ってしまうのは、つらいことである。やろうと思えば、掃除だって、買い物だって、自分でできそうな気がする。しかし、それでは要介護認定からはずれてしまう。こういう見栄張りが、高齢者が介護状態になるのを防いでいるという面もあるのだから、家族が言うとおり、「できません」と言わせておいていいものかどうか、これまた判断に迷うところである。

 自分のことで言うと、私も相当のミエッパリである。先日も、ある放送局が私のジョギング風景を撮影したいということで、やってきた。当日は、私は病み上がりで体調万全とはいかない状態であったが、カメラを向けられると軽やかに、普段よりも速いペースで走り出してしまうのであった。こんなのは、実にかわいいものであるが、それ以外の場面でも、能力以上に自分を見せるために苦心算段している自分を見出してしまう。

 なにごとも程度問題ではあるが、ある程度の見栄張りは、むしろ人間の成長にとって必要なことではあるまいか。見栄を張ろうとする気持ちをなくしたら、人間としての成長が止まってしまうし、人間としての尊厳までなくすことにさえ通じかねない。漫談でだが、老人で、一日のうち一回も鏡を見ないようになったらボケの始まり、一日中鏡を見ているようになったら、後戻りできないボケといったことを聞いたことがある。

  ミエッパリの要素がまったくない人とは、友達になりたくない。見栄を張るのは、極めて人間的なものであり、友人を選ぶなら、人間臭いほうがいい。見栄とは、見栄えがいいことにもつながる。そう考えれば、やはり、見栄は張るべきものである。


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