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月刊年金時代2006年1月号
新・言語学序説から 第43

「講演について」

 昨年11月20日に、三期十二年務めた宮城県知事を退任した。その一週間後、11月27日には、東大駒場祭での講演をやっていた。知事退任後すぐの日程だったので、その頃にはどういう状態にあるのか不明だった。少し躊躇したが、かわいい後輩の頼みである。「喜んで!」の乗りでお引き受けすることにした。

 「三期十二年の知事を終えて」というタイトル。そもそも、誰が聴きに来るのだろうか。30人ぐらいしか集まらなかったら、ちょっとつらいなと心配していたが、200人以上の聴講者がいたので、まずはホッとした。

 知事退任後初めての講演である。知事在職中は、平均すれば、月に一回は講演していたので、12年間でざっと150回。厚生省時代も、そんなものだろうから、合計すれば相当回数の講演をこなしている。

 確かに、講演は嫌いではない。これだけ回数を重ねれば、慣れもあって、得意科目にもなってくる。この日の東大駒場祭での講演も、「喜んで!」引き受けたものである。学生さんが企画したので、いろいろと難点はあるが、それよりも、よくぞ企画してくれた、よくぞ私を招いてくれたということのほうに感謝、感激である。

 講演依頼があれば、よほど不得意な分野でない限り、お受けする。事前の準備はほとんどしない。内容については、硬軟取り混ぜての「受け狙い」でやってしまう。つまりは、適当に冗談を交えながら、決めるべきところは真面目にびしっと決める。こういうのは、講演ずれしていると不快に思われる恐れはある。

 いくつか心に決めていることは、時間厳守ということである。そのことについては、この連載の「時間厳守について」で触れたことがある。何分話すかではなく、何時何分までという終わりの時間を厳守する。特にコツはいらない。その時間が来たら話をやめればいいだけのこと。事前に準備をして臨めば、準備した内容を全部話さなければ、やめるにやめられないという気になってしまうようだが、私の場合は準備をしないので、そういう心配はない。話の途中でも、なんでもかんでも、ともかく時間が到来したらやめること。その気持ちさえあれば、時間厳守はなにもむずかしいことではない。

 講演の途中で寝る人は、たった一人でも許さないというのも、心に決めていることの一つである。駒場祭での講演では、一番前に坐った学生さんが、講演が始まる前から寝ている。思わず、「寝るのはいいけれども、一番前で寝られるとやりにくい。寝るなら、後ろの席でお願いする」と言ってしまった。それにしても、講演がつまらなくて途中で寝てしまうというのならわかるが、始まる前から寝てしまうというのは、どういう了見なのだろうか。といったことを申し上げたら、そのお兄ちゃんは、私の講演中に一回も寝ることなく熱心に聴いてくれただけでなく、最後には立派な質問までしれくれた。やはり、言ってみるものである。

 講演しながら会場を見回して、寝ている人がいると、いやが上にも私の闘志は掻き立てられる。机をドンと叩いてみたり、眠そうにしている人の顔をしかと見据えたり、わざと沈黙の瞬間を作ったり。私の経験では、沈黙を作るというのが、眠気一杯の聴講生には一番効くようである。講演者にとって、講演の最中に寝られることは、プライドが傷つけられることである。だからこそ、「ここは勝負」という感じになる。「俺の話の魅力で、眠れないようにしてやるからな」との闘志が燃え立たせられることになる。

 これも一つの例であるが、講演は一回一回が勝負である。同じような話をしても、聴衆によって、こちらの乗りが大きく違ってくる。熱心に聴いてもらっているのは、壇上から見ていてわかるもので、それが感じられると、話にも熱を帯びてくるのは当然である。

 考えていることを、聴衆の前で披露するのは、その問題についての自分の考えをまとめるという意味では、とても貴重な機会という気がする。シンポジウムなどで、ちょこちょことしゃべるのでは、そこまではいかない。一時間以上のまとまった時間を使って話をすることによって、自分の思想が鍛えられる。

 鍛えられると言えば、話術とか度胸は鍛えられる。話術と称するほどのレベルではないのだが、どういう話し方をすれば、聴衆の共感を得られるのか。私の場合は、特に、どういったことで受けるのか、笑いが取れるのか。話の内容だけでなく、間の取り方とか、声の調子、スピード、身振り手振りも含めて、試行錯誤の過程を経ながら、私なりに体得するものがあったような気がする。

 声の調子と言えば、我が友寺島実郎さんの講演には、いつも感動してしまう。もちろん彼の講演内容は情報量、分析力、問題提起の鋭さ、どれをとっても当代一流なのだが、それに加えて、バリトンのよく響く声が、講演をさらに魅力的にしている。私は「寺島節」と言っているのだが、独特の言い回しが、その場その場の話の内容にぴったりで、これも快い。講演は音楽みたいなものでもあるので、内容に加えてのこういった要素も聴衆を酔わせるのである。

 寺島さんの講演を聴いた直後は、こちらまで賢くなったような気になるから不思議である。やくざ映画でヒーローが大活躍をする場面を見終わった後、少し肩をそびやかしつつ、喧嘩が強くなった気になって映画館を出るのと、似ていないこともない。講演の持つ力というのは、そういったものでもあるわけで、この領域にまで達したら、講演者としては最高である。

 知事を辞めた後は、得意な仕事、好きな仕事しかしないと、秘かに心に決めていた。講演活動は、得意な仕事と断言するほどの自信はないが、好きなことであることはまちがいない。言語学としても、講演は日本語を鍛えるという実践の場である。講演は只ではないので、収入の道でもある。収入を得ながら、自分の日本語も鍛えてもらえるとしたら、こんなラッキーなことはない。


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