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月刊年金時代2005年12月号
新・言語学序説から 第42

「選挙演説について」

 選挙においては、言語が勝負である。候補者としての約束を言語化したものを公約というが、衆議院議員選挙や首長選挙における公約は、「自分(たち)が政権を執ったらこういういうことを達成する」という約束であるので、「政権公約」と呼ばれる。最近では、これが「マニフェスト」と称されることがある。

 公約と呼ぼうが、マニフェストと称そうが、紙に書かれた言語である。一方において、選挙演説という音声言語も、選挙においては大きな力を発揮する。公約は他の人に書いてもらっても通用するが、音声言語は候補者自身から発せられるしかない。演説の内容はもちろん、声質、言葉の抑揚、身振り手振り、そういったもろもろの要素が評価されることになる。元気があるかどうか、自信たっぷりか、誠実かどうか、そういったことも、演説の内容とは別に、パフォーマンスを通じて判断される。

 12年前に、ふるさと宮城県の知事選挙に立候補した時に、生まれて初めて選挙演説をする機会に恵まれた。「機会に恵まれた」と書いたように、こういう演説は嫌いではない。選挙そのものも、「イヤだな」という感覚でやっていると、絶対にうまくいかない。私の場合、演説、講演、スピーチということが嫌いではなかった。選挙も実際にやってみたら、血湧き肉躍るような経験であると実感した。

 他人が自分の演説に耳を傾けてくれるというのは、ありがたいことである。それまでも、人前で話をするときには「受け狙い」で来ていたので、演説で少しでも手応えを感じるとうれしくなってしまう。選挙演説は、まさにそういったものなので、楽しくないはずはない。初めての選挙の際の演説が、どの程度のものだったかは定かでないが、選挙期間中に何百回も演説を繰り返す中で、確実に上達していくことは実感することができた。

 今回、3期12年の任期を終えるにあたり、四選出馬せずの決断をした。だから、本来であれば、選挙に関わることはなかったのだが、事の成り行きで、私の後任選び選挙に深く関わることになってしまった。まるで自分の選挙の如くに活動し、周りからは「どっちが候補者かわからない」と揶揄されるほどであった。その選挙において、選挙演説もしたし、候補者の演説をはらはらしながら見守るという立場に身を置くことになった。

 ということで、改めて選挙演説を言語的に考える契機になった。選挙演説にもいろいろな分野がある。街頭演説、個人演説会での演説、選挙カーからの訴え。言語学的に言って、それぞれ大きく位置づけが違う。位置づけが違うから、対処方針も違う。

 たとえて言えば、街頭演説は歌である。個人演説会での演説は散文、選挙カーからの訴えは標語、テレビコマーシャルである。街頭演説が歌であるというのは、演説の中身よりは、話すリズム、歯切れのよさ、声の調子のほうが、よほど大事であるからである。聴衆をどれだけいい気持ちにさせられるか。感動させ、興奮させ、共感にまでもっていくかが勝負である。

 説明調になってはいけない。言いよどんではならない。話の流れに抑揚をつけなければならないのは、歌であるから当然であろう。言葉のリズムも大事。歌謡曲の歌詞のように、印象に残るフレーズを散りばめることも忘れてはならない。声の大きさで、候補者の元気さを強調しなければならない。うるさ過ぎてもだめ。これも、演歌歌手と共通している点である。

 個人演説会での演説はだいぶ違う。会場に来る人たちは、候補者の話をじっくり聴こうとしている。散文を読み上げるように、聴衆に語りかける姿勢が求められる。政策について、真面目にわかりやすく説くことが最も大事なことである。時折は笑いを取らなければ、聴衆を惹きつけられない。ほろりと涙を誘うエピソードも交えられたら最高である。話術が試される機会である。

 私としては、個人演説会での演説を得意とした。起承転結の話が展開できるし、声をことさら張り上げなくてもいい。聴衆の反応を確かめながら話ができる。公務員生活の中でも、講演の機会は数限りなくあったので、その再現のような気持ちで臨めたのも大きい。

 選挙カーからの訴えは、また違う。標語、テレビコマーシャルのようなものと書いたが、短いフレーズの連続ということでいけば、五・七・五の俳句である。そのあとに七・七と続くと長過ぎる。

 選挙カーは移動するものであるので、長いフレーズではメッセージは届かない。5秒、10秒が勝負。その間に、候補者の名前も入れなければならない。説明などしている余裕はない。瞬間に通り過ぎる車から流れるメッセージでも、聴いている人の印象に残るような算段は不可能ではない。そういったフレーズを、有権者の耳に届けなければならない。結局は、候補者の名前の連呼に近いものになってしまうのは、自分でやっていて芸がないと思ってしまう。

 街頭演説、個人演説会での演説でもう一つ大事なことは、時間管理である。候補者は、大体において、話が長過ぎる。候補者の多くは、時間管理に慣れていない。その点、この「新・言語学序説」が以前連載されていた『年金と住宅』の「時間厳守について」で書いたように、私は時間管理にうるさい。訓練も積んできた。生まれて初めての政見放送の収録で、5分30秒ぴったりで話をしたことをテレビ局の人にも驚かれたことを自慢話として紹介したのだが、これもそれまでの訓練のたまものである。

 こんなことを自慢しても仕方がないような気はする。選挙演説なんて、所詮は、選挙に出るという、非日常的な、当たり前でない経験をする人種の中だけでのできごとである。普通の人なら、そんなことのために訓練していると言われても、鼻白むだけのことである。ただ、経験者としては、言語学的に興味がないことでもないというのが実感である。こういう経験も、これからはすることはないのだなということ、別に寂しいとは全く思わないが、それなりの感慨はある。


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