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月刊年金時代2005年11月号
新・言語学序説から 第41

「デマについて」

 デマ。デマゴギーの略で、でたらめな噂、中傷、扇動のこと。「デマに踊らされる」などと使われることが多い。単なる噂、中傷ではなく、それによって次の行動に結びつくという意味では、扇動というのがピッタリの日本語なのかもしれない。

 デマに踊らされて株を買い、大損したとか、デマが流布されて会社を追われたとか、ともかく、何かの行動につながって、一定の結果をもたらす。デマを流すほうからは、そういった目的を達するために、意図的にやるのだから、ねらった行動につながれば成功ということになる。デマには目的があるということがポイントである。

 「あいつは、こういう奴で、こういうことをやっていて・・・・」という噂を意図的に流すということもあるが、短い言葉でのデマもある。古くは「鬼畜米英」というのも、そのたぐいではないだろうか。「アメリカ人、イギリス人は鬼か畜生」といったことは、明らかに嘘である。しかし、しかるべき筋が流せば、この例では国家なのだから、すんなりと受け止められてしまう。戦後、日本に駐留してきたアメリカ人は、子供たちにチョコレートを配ったり、とかく親切、友好的そのものだった。日本人は、「鬼畜米英」がデマであったことには、すぐに気がついたのである。

 「義経は日本で死んだのではない。中国大陸に渡って、ジンギスカンになった」というのは、デマの一種かもしれないが、こういうのはだまされても、なんということない。現在の出来事ではないのだから、当然といえば当然のことである。

 政治家と病気は、デマの格好の題材である。簡単な病気で入院しても、「あいつはガンで入院した。再起不能だ」というデマが飛ばされる。そうなると、生物学的な生命はなんともなくとも、政治生命のほうが危うくなる。だから、政治家は簡単に入院できないし、入院の事実をひた隠しにするということになる。

 デマというより、国会での誤解発言から銀行が取り付け騒ぎを起こしたという歴史は、高校の授業でも習った覚えがある。関東大震災の際に、朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが流布して、多くの朝鮮人が日本人に命を奪われたという忌まわしい事件もある。デマは人を殺すこともあるのである。

 デマとはすぐに気がつかないデマもある。果たしてデマと言えるかどうか、紙一重のところではある。小泉首相の掲げる「郵政民営化」とか「構造改革」をその例にあげたら、叱られるだろうか。「郵政民営化なくして構造改革などできますか」と迫られれば、「なるほど」と納得してしまう人は多かろう。これも扇動と言えるのではないか。一方、郵政民営化に反対すれば、「守旧派」のレッテルを貼られる。これもデマの一つと言えるかもしれない。私も「改革派知事」と呼ばれることもあったが、別にその定義があるわけでなし、言われている本人も、デマとまでは思わないが、なんとなく居心地は良くなかった。

 小泉首相が得意とするワン・フレーズ・ポリティックスである。決して嘘を言っているのではない。しかし、本来なら、相当に説明を要することを、極端なまでに単純化した言語にするものだから、反論のしようがない。しかも、俗受けがする言い方である。かっこ良くて心に響く。反対すれば非難されそうな気もする。改革、平和、正義、公平、平等、こういった言葉はすべて美しき言葉であって、誰も反対できない種類のものである。これも一種のデマとして機能する場面もあるということだけの指摘にとどめよう。

 風評被害と呼ばれる現象も、デマの一変形である。所沢の野菜がダイオキシンに汚染されているという報道で被害を受けたということで、JA所沢がテレビ朝日を訴えた。高裁ではテレビ朝日勝訴、最高裁では破棄差し戻しであるから、相当にややこしい事案ではある。訴訟にまでならなくても、似たような風評被害の例は枚挙に暇がない。JCOの臨界事故で、東海村の国道6号線沿いの飲食店が軒並み経営難に陥ったり、特産の干し芋が売れなくなったりしたこともあった。

 デマは意図的な嘘を流すことだとすれば、風評被害の場合はぴったりとは定義にあてはまらない。科学的知識の不十分さ、データの読み違いなどにより、実際には何の罪もない地域が大きな被害を受けるというものである。宮城県北部連続地震で、実際には全く被害のなかった気仙沼市に、観光客の姿がぱったりと途絶えたというのは、観光客自身が自分で作ったデマに、自分でひっかかったと言うべきなのだろうか。

 デマを活字にすれば、名誉毀損になりうる。イエロー・ペーパーと呼ばれるような新聞もどきには、デマが満載である。週刊誌だって、書いているほうとしては真実のつもりだろうが、書かれた対象からすれば、事実無根、名誉毀損という例はたくさんある。書き手側も百戦錬磨のプロであるから、あからさまな嘘は書かない。針小棒大、事実であると匂わせておいて、うわさ話の引用にとどめておいたり、尻尾をつかまれない書き方で逃げ道を作っておく。そうやって書かれたほうは書かれ損。こういうのは、どこかおかしくないか。

 昔はうわさ話でゆっくりと、限られた範囲で伝わったデマが、今では、テレビなどの報道、さらにはインターネットを通じた掲示板などで、瞬時にしかも広い範囲に伝わる。これは恐ろしい。特に、インターネット経由は、匿名でのデマの流布であるから、悪意でやられたら手がつけられない。犯罪として構成する法律改正と取り締まり方策も含め、早急に手が打たれなければならない。

 罪のないデマは、笑って済ますこともできよう。しかし、罪深いデマもある。重要な問題についてのデマには、まどわされない覚悟も必要。覚悟の問題だけではない。ふだんから、真実を追究する意志と方法論を身につけておかなければならない。デマは民主主義の敵。敵であるなら、撃退法を磨かなければならない。


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