![]() 月刊年金時代2005年2月号 「たとえ話について」 たとえ話は有効である。歌謡曲では、頻繁に使われる。美空ひばりの「川の流れのように」は、人生を川の流れにたとえている。「浪花節だよ人生は」も同じようなものか。「花が女か、男が蝶か」と歌う森進一の「花と蝶」がある。歌詞で「ナニナニのよう」というのは、例示に困るほど多用されている。 むずかしい話、面白くない話に興味を持ってもらいたいと画策するときにも、たとえ話は有効である。わかり易い、面白いだけでなく、説得力もある。最近も、そんな経験があった。三位一体改革についての「政府の全体像」への論評を朝日新聞から依頼された時に、この手法を使った。 国から地方に流れている二十兆円余の補助金・負担金のうち、三兆円を廃止して、それと同額の税源を国から地方に移譲する。それによって、地方自治体ごとに凸凹ができるのを均すために地方交付税の配分を変える。「三位」は、補助金廃止、税源移譲、地方交付税改革。これらを「一体」で、つまり同時に改革するから「三位一体」と呼ばれる。 三兆円でなく、九兆円規模でやるべしというのが、知事会の要望であったが、ともかく第一期改革として、三兆円ベースで地方側はまとまった。それへの抵抗勢力が、霞が関各省官僚と族議員という図式。 これを舞台上での演劇にたとえた。大真面目な劇だから、帝国劇場で演じられる。演目は「三位一体改革」。これではどんな劇かわかりにくいから、「地方財政自立改革」にしたほうがいい。 主役は小泉純一郎首相。冒頭に出てきて、「三兆円の税源移譲をする」と見栄を切った。重要登場人物として、地方も舞台に上がりなさいと主役から声を掛けられた。昨年の劇では、財務省と総務省の掛け合いだけで終わってしまったのに、今回は舞台に上がって演じていいという。「ろくにまとまったセリフはしゃべれないだろう」との陰口にもかかわらず、立派に名ゼリフを吐きながら舞台を務めた。 敵役は族議員である。いやに黒子の動きが目立つ。しかも、族議員に代わってセリフを言っている。黒子とは官僚群のこと。舞台の上で地方側と族議員とが切り結ぶ。地方側は多勢に無勢で劣勢になるが、最後の場面で主役がさっそうと再登場し、「おのおの方、静まれ」と決めゼリフを言って、混乱の場を収めるはずだと地方側は思っていた。 しかし、本格的な戦いが始まったところで、主役の首相は、「俺の出番がないようにするのが、君たちの仕事」と言って、官房長官、自民党政調会長らに後を託してしまった。自分は舞台の袖に引っ込んだまま、出てくる気配がない。最後の場面で主役不在では劇にならない。おかげで、地方側は一敗地に塗れ、族議員と黒子とが一緒になって勝どきを上げる場面で第一幕の幕は降りてしまった。 これでは新国劇(深刻劇)ではなく茶番であると、演劇評論家たるマスコミの論評も厳しかった。税金という木戸銭を払っている観客たる国民(納税者)は、しかし、あまり騒がない。もっと騒げば、カーテンコールに応えて主役が出てくるかもしれないのに、その兆候はない。観客は、劇の本筋にはあまり興味がなかったからかもしれない。 なぜ茶番に終わったかと言えば、台本がなかったからである。舞台ではアドリブ演技の横行であった。第二幕は、すぐにも開けなければならないのだが、今度はしっかりとした台本がいる。次の総選挙における各党のマニフェストという名の台本比べを、事前にする必要がある。観客がどちらの台本がいいかを選ぶ。選ばれた台本を書いた政党は、舞台の上では台本どおりに演じなければならない。今度こそ、大団円の第二幕になることだろう。それに備えて、地方側もまとまった演技ができるよう、稽古を積まなければならないと決めている。 めちゃくちゃ長くなってしまったが、これが三位一体改革を劇にたとえた話。政治的な流れはこの話で大体わかる。 内容については、別なたとえ話が必要である。前年は、補助金・負担金廃止リスト九兆円を地方側がまとめた。今年、小泉首相から依頼があったのは、三兆円の廃止リストの作成である。九兆円分入るボストンバッグに廃止される事業を詰め込んだのだが、今年渡されたのは三兆円しか入らない小さなバッグである。どれをバッグに残して、どれをバッグに入れないようにするか、詰め込み方の優先順位をつけなければならなくなった。 その優先順位づけを、野球の打順にたとえたのである。先発メンバーの三兆円分をどうするか。地方側として、最も廃止を望んでいるのは公共事業関係だから、これが主力の四番バッター。義務教育費国庫負担金は、先発には入れるが打順は最後の九番。ところが、四番バッターが三振して、九番バッターが主力打者として期待されるようになってしまった。さらには、ベンチ入りさえしていなかったバッターの国民健康保険関係が、突然、主力中の主力(削減額七千億円!)を打たされることになった。なんたることと、私は怒ったということになる。 この辺になると、どんなたとえ話なのか、多くの人にはわからなくなるだろうから、もうやめる。ボストンバッグを持ち出したり、野球の話を持ち出したり、それなりに苦労と工夫をしているんだということを知らせたかった。 三位一体改革の問題に限らず、モノゴトをできるだけわかり易く説明したいという思いだけはある。私にとっては、習い性となっているような気もする。たとえ話を使っての説明が、こちらの思惑どおりにすんなり受け入れられる保証はないのだが、努力だけはしているつもり。 たとえ話の多用は、相手方への思いもあるが、正直なところ、自分自身が面白がっているところもある。思わぬ効用としては、たとえ話としてしゃべっているうちに、自然に話が発展してしまい、自分自身のその問題への理解が深まるということもある。ただし、不適切なたとえをして、大やけどをしてしまった苦い経験もある私ではある。それはどんな場面のどんな例かって? 聞かないで下さい。
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