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月刊年金時代2004年6月号
新・言語学序説から 24回

「 言葉の暴力について」

 言葉の暴力ということは、確かにある。「口喧嘩」は、そのことを端的に示した表現だろう。言葉は、言われたほうが痛みを感じるという意味で、暴力と同じ力を持つ。

 暴言を吐かれたら、自然に身体が反応して、言った相手に暴力を振るってしまうことは珍しくない。「口で言われたら、口で返せ」だけでは済まない。そのぐらいひどい暴力的な言葉というものはある。

 口で言われて暴力で返すというのは、言った相手が目の前にいるから成り立つ。相手が目の前にいない、誰が言ったかも特定できない場合はどうしたらいいのか。しかも、言った内容は、不特定多数に伝わってしまっている。これが、マスコミ報道による「暴力」である。報道された内容が事実でないとき、事実であってもプライバシーを暴くものであるとき、それは激しい暴力と同じ効果を持つ。

 最近の例は、「週刊文春」出版差し止め事件である。「週刊文春」の平成十六年三月二十五日号で、田中真紀子前外務大臣の娘さんについて、その私生活に関わる記事が出た。これに対しては、東京地裁では出版禁止の仮処分がなされたが、東京高裁ではそれが取り消された。

 憲法で保障する表現の自由に関することがらであるので、出版差し止めのような措置は、よほどの場合でなければ発動されてはならない。「週刊文春」の今回の記事が、「よほどのもの」にあたるかどうかは、議論が残る。東京地裁の措置が出版禁止にまで及んだのは、やり過ぎだったかもしれない。しかし、だからと言って、記事に何の問題もないとはいかない。

 田中真紀子さんの娘の場合、親が政治家だから、私生活を記事にされても仕方ないのだろうか。「週刊文春」側の弁明は、そのように言う。娘も将来政治家になる可能性が高いからだそうだ。知事という仕事をしている私にとっては、「ハイそうですか」と聞き流してしまえる主張ではない。

 公にする価値があることは、報道するのが筋という言い方もされる。今回の件が、本当に公にするほどの値打ちがあることかどうかは、書かれる側の痛みということも考え合わせれば、実に微妙なところである。内容は承知しているのだが、「今回の件」としか書けない。だから、説得力はものすごく減ってしまうのだが、それにしても、何が面白くて前外相の娘の私事を何万部も流布する出版物にしてしまうのか。まだ、腑に落ちない。

 「何が面白くて」と書いたが、書いたほうとすれば、読者は面白がって読んでくれるだろうことは、計算済みである。これが市井のふつうの人に関することだったら、とても記事になるような代物ではない。公にする価値はなくとも、読んでもらう興味だけは間違いなくある。そういうことで記事にされることは、政治家の娘まで払うべき「有名税」の一部なのかどうか。

  報道よりもっと恐いものがある。インターネット社会における、新しい形の言葉の暴力については、よくよく考え抜かないと大変な事態になることを心から憂えている。ネット内を駆け巡るさまざまな「情報」。その中には、個人に関する情報や意見も含まれる。誹謗、中傷などの個人攻撃、デマ、噂話、プライバシーの暴露も相当に出回っている。

 その文脈の中で、注目されるのがイラク人質事件である。イラク人質事件は、人質解放という形でのハッピーエンドは迎えたが、むしろ、その後の進展が「言葉の暴力」ということを考えさせる契機になった。「自己責任」についての政府高官の発言やら、一部報道による人質批判、これらも、人質本人やその家族にとっては、言葉の暴力と受け止められることはあったかもしれない。しかし、それよりもっと深刻なのが、ネット上で展開された人質への誹謗、中傷であった。

  ネット上での「人質攻撃」のニュース自体、新聞などでの報道はあまりないので、一部にしか知られていない。しかし、ネットを駆け巡る情報によって、「世論」が形成されることも事実である。巷の噂話のようなものが、ものすごいスピードと広がりをもって、伝わっていく。 噂話の恐ろしさというものがある。「実はね・・・・」、「あまり知られていないのだけれど・・・」という形で伝わる噂話は、聞く側にとっては、隠微な魅力に彩られている。真実以上に本当らしく聞こえる。もっと恐ろしいのは、ちゃんとした報道と違って、噂話の対象になっている人は、表立って反論ができないことである。闇の中での暴力のように、誰が殴ったのか相手がわからない。

  イラク人質事件の人質は、なんのかんの言っても、被害者である。既にして、肉体的にも精神的にも傷ついている。その人達に追い討ちをかけるように批判、非難の声を投げつける行為には、国内外から「やり過ぎ」の声が上がった。ネット上の発言となると、匿名であり、一時期に多数からということになる。これでは、少数の傷ついた人達は耐えられない。言葉の暴力以外のなにものでもない。

  報道媒体を通じての批判、非難となると、その発言元は、一応特定している。雑誌の場合は、個人の執筆者であることが多いが、新聞、テレビとなるとその辺が曖昧になる。一方、ネット上の意見は、曖昧模糊、無責任そのもの。問題は、そういった意見が、同じ方向を向いてなされる現象である。私はそれを「大合唱」のように聞く。何万人の大合唱は、耳をつんざくほどの大音響になるし、もちろん一人一人の歌い手など特定されない。たった一人でその大合唱を聞かされる人にとっては、ものすごい衝撃を伴う言葉の暴力ではないだろうか。

  非難や批判が、どこから見ても正当なものなら、大合唱は許されるし、必要でもあろう。相手が権力者である場合と、そうでない個人の場合とでも事情は違う。そういったことも含め、言論は時として不当な暴力になり得るという想像力だけは持たなければならないと思う。

  今回は、珍しく真面目一本槍の文章になった。たまにはいいでしょう。


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