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月刊年金時代2003年12月号
新・言語学序説から 第18回

「失言について」

 失言は得意なほうである。なにしろ、昔から一言多いと言われてきた。沈黙は金、雄弁は銀であると知りながら、常に銀メダルねらいの人生であった。沈黙していることを苦手とする性格であるから、必然的に失言のチャンスが多くなる。

 最近では、平成十五年七月の宮城県北部連続地震のあとの発言である。地震発生時に、私はブラジルの地にいた。宮城県に帰ってきてからの最初の記者会見において、帰国のタイミングが遅れたことを記者からとがめられた。その時に、つい、「阪神淡路大震災級の地震だったら、すぐに帰国した」と口走ってしまったのである。これが失言。帰国が遅れたことよりも、こちらのほうがマスコミの標的になり、失言が全国に広まってしまった。

 この時は、失言にすぐ気が付いた。言い訳の余地がない。あやまるしかない。がんばって、発言の正当性を言い立てると、さらに二次災害になってしまう。そのせいもあってか、この失言はそれほど尾を引くことがなく、七十五日が過ぎたのである。

 失言は、総理大臣の交代や国会の解散にまで発展する。近くは、森喜朗前首相。思い出すだけでも、いろいろある。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを、国民の皆さんに、しっかりと承知をしていただく」(二〇〇〇年五月、神道政治連盟国会議員懇談会)と言ったことが、大問題になった。いわゆる「神の国発言」である。

 続いて、「(衆議院選挙に関心のない有権者は)寝てしまってくれればいいが、そうはいかない」(同年六月、大分県三重町での総選挙遊説中の記者会見)と言ったことが、無党派層を逆に刺激してしまった。「なんか、エイズが来たように思われて」(同年一月、敦賀市での講演)、九月には、「(政権の成立過程が)私生児のように言われるのは不愉快だ」(衆議院予算委員会)といった発言がある。こういった一連の失言問題が、首相の資質を疑わせるというところまで発展して、「加藤(紘一)の乱」などをはさみ、結局、森総理大臣退陣に至ったのだから、失言は高くついたということになる。

 政治家の失言ということで、過去の有名なものを拾ってみた。吉田茂首相が、予算委員会で右派社会党の西村栄一議員の質問にいらだって、「バカヤロー」と叫んだことがきっかけで、衆議院が解散した。有名な「バカヤロー解散」である。子ども心に、「吉田ワンマン首相」という言い方を覚えていた。この「バカヤロー」は、失言というよりは暴言のたぐいだろう。

 「貧乏人は麦を食え」というのも覚えている。正確には、「金のない貧乏人は、米を食わずに麦を食べればよい」との発言である。池田勇人大蔵大臣が予算委員会の答弁で言ったことだが、この発言が元で、池田蔵相は辞任することになる。それから数年後に、池田さんが総理大臣になった時には、「私は嘘を申しません」と言いながら、「所得倍増計画」を発表した。当時の私には、「所得倍増」はとても本当とは信じられなかったので、「そんなことありえない、この人、嘘言っているじゃないか」と思ったものである。

 厚生大臣もやった渡辺美智雄さんは、失言の常習者であった。あけっぴろげというか、サービス精神旺盛というか、言葉がどんどん出てくる。「(野党は)ウソばかり。こんなものに引っ掛かるのは、毛ばりに引っ掛かる魚と同じで、知能指数が高くないと言われてもしかたがない」とか、「日本人は破産を重大に考えるが、向こう(米国)の連中は黒人だとかいっぱいいて、ケロケロケロ、アッケラカンのカーだよ」の失言があったが、これが「ミッチー節」。失言だと言いたてるほうも、それほどいきり立ったところはなかったような気がする。

 最近のものでは、石原慎太郎東京都知事が群を抜いている。外務省の田中均外務審議官の自宅に爆弾が仕掛けられたことに関して、「彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあったのじゃないか」という発言は、自民党総裁選に立候補した亀井静香氏への街頭応援演説の場で飛び出した。私と田中均さんとは、ワシントンの在米大使館勤務時代に同僚として仕事をした仲である。そういったこともあり、許されざる発言であると感じていた。

 当の石原都知事は、その後の都議会での答弁で、「田中均なる者の売国行為は万死に値するから、ああいう表現をした」、「ゴルフで言えば、インテンショナルフックですな」、「片言隻句に喜ぶバカなメディアがダボハゼのごとく食いついて、結局、国民はこれをきっかけにして、外務省が何をやったか認識し直してくれたと思う」と発言した。言い過ぎた、言葉足らずだったと思ったら、「ゴメンナサイ」と言ってしまえばいいというのが、ふつうの反応である。石原知事の場合、自分の発言の正しさに自信があるからだろうか、こういったようなフォローになる。

  拉致被害者の曽我ひとみさんの母親のミヨシさんについて、都議会の答弁で「年寄りだから、曽我さんのお母さんなんか殺されたんでしょ、その場で」と言ったことについては、さすがに、翌日、「配慮が足りなかった」と答弁した。こういった陳謝は、むしろ珍しい例で、石原知事の失言は、失言ではなく、確信的発言と呼ぶべきものなのだろう。

  こうやって書いたら、きりがない。政治家だけでなく、大会社の社長や、病院の院長などが、不祥事のあとに、ついつい失言をしてしまう例も、枚挙にいとまがない。人間は、失言するものなのである。それを聞き逃してしまうか、おおごとにしてしまうかは、マスコミなどの扱い方にもよるが、その後の発言者の対応ぶりにもかかっている。 知事という仕事をしている限りは、失言の危機にいつもさらされている。だから、冒頭に書いたような感じで、開き直ってはならない。特に気をつけるべきは、差別的発言。中でも、セクハラ的発言は、「自分が女性だったら、どう受け止めるか」という想像力の欠如から生まれる。

  ところで、今回書いたところに、失言のようなものはなかっただろうか。


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