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月刊年金時代2003年11月号
新・言語学序説から 第17回

「翻訳について」

 読書の楽しみから遠ざかっていた。昔、つまり、知事になる前は、いつも読みかけの本を持っていた気がする。通勤の電車で読む、就寝前に読む、続きが読みたくて気がせくという感じだった。そういった、血湧き肉踊るような本の多くは、実は、翻訳ものだったのである。

 具体的には、ジェフリー・アーチャー、ケン・フォレット、J・グリシャム、フレデリック・フォーサイス、トム・クランシーの手になるものは、ほとんどすべて読んだ。ストーリー展開がとても上手で、読者をぐいぐい引き込んでいく手法に長けている。洒落た会話も、ニヤリとしながら読まされる。女流作家のものも、捨てがたい。ジュディス・クランツ、メアリ・H・クラークは、大体読んでいた。

 翻訳ものは苦手だという読者がいる。翻訳調が鼻について受けつけないという。日本の作家による作品でないとだめと、決め付けている人さえいる。私にも、そういった時期があった。

  故山口瞳さんの随筆は、文章の素晴らしさにつられて、「男性自身」シリーズをはじめ、出版されたものはすべて読んだ。その山口瞳さんをして「参った」と言わしめた故向田邦子さんの随筆は絶品である。日本人に生まれて、日本語を母国語としていてよかったと思えるほど。最近のものでは、浅田次郎さんの文章もいい。「壬生義士伝」などは、盛岡弁のことばの感じが、全編にわたって香りとして漂っている作品であって、これは翻訳ものでは絶対に味わえない。

 この稿は、「私の読書遍歴」を書こうとしたのではない。日本ものもいいが、翻訳ものだって悪くないということを訴えたい。翻訳のむずかしさ、面白さについて書いてみたい。そう思って書き始めたのである。「読書の楽しみから遠ざかっていた」と書いたが、ごく最近、またまた読書の楽しみに戻してくれたのが、翻訳ものであったということから書き起こそうとして、回り道をしてしまった。

 新潮文庫の外国ものを、ここ数週間で結構読んだ。これが面白いのである。「ギャングスター・上下」4(ロレンゾ・カルカテラ)、「憎しみの孤島から・上下」3(サンドラ・ブラウン)、「見ないふりして」3(メアリ・H・クラーク)、「君ハ僕ノモノ」2(同)、「恋する宝石・上下」3(ジュディス・クランツ)といった具合。書名のあとの数字は5点満点の評価。メアリ・H・クラークは既に七十歳を越えてしまった。年齢のせいかどうか、ストーリーに無理があるような気がして、評点が辛い。

 メアリ・H・クラークの翻訳者は深町眞理子さん。この方も、七十歳を超えているが、「堅実な訳文は定評がある」(新潮文庫の解説から)。ジュディス・クランツの訳者は小沢瑞穂さん、サンドラ・ブラウンの訳者は法村里絵さん。女流作家には女性訳者ということになるのが、やはり自然なのだろう。いずれの訳も、読んでいて翻訳調が鼻につくという部分は、ほとんどない。自然なうまい訳だと思う。

 といったことを書きながら、こういう訳者評は、当を得ているのだろうかと自問してみる。だって、原文を読まずに、「訳がいい」などと言えるのだろうか。原文が悪文であれば、訳者ががんばるにも限度がある。悪文を良文(こんな言葉はないと思う)にしてしまう訳者は、本当はいい訳者ではないのであって、悪文をそのまま悪文に訳すのが忠実な訳者、つまりいい訳者なのではなかろうか、などとも考えてみた。

 翻訳ものを読んでいて、気にかかるのは、会話文での男女の書き分け、乱暴口調と丁寧口調、方言・なまりのたぐい。これをどう訳出するのか。「I(アイ)」を、俺、僕、私、あたい、と訳す基準はどこにあるのか。「YOU(ユー)」を、あなた、お前、貴様、とどう訳し分けるのか。

 そもそも、この稿を書くきっかけを思い出した。先日、「ハリー・ポッター」の訳者であり、編集者、発行者(この本の出版社の社長)の松岡佑子さんと鼎談でご一緒したことが、「翻訳について」を考えることにつながったのである。

  英語大好きが嵩じて、同時通訳の世界に進んだ松岡さんが、出版社を経営していた夫の死後、イギリス滞在中に親友から勧められたのが「ハリー・ポッター」であった。あまりの面白さに一晩で読み終えて、すぐに「この本を訳して、夫から引き継いだ出版社から出版したい」と思い込んだ。その熱心さが実を結んで、翻訳権を獲得、出版。あとは、あれよあれよという間であったようだ。「ハリー・ポッター」の翻訳は、日本で千六百万部の大ベストセラーになったのである。

  松岡さんにとっては、文学作品の翻訳は初めての経験であった。しかし、この初めての経験に、松岡さんは夢中になったという。素晴らしい本との出会いがそうさせたのであろう。やはり、いい本があって、いい翻訳ができる。ぴったりの訳を探し求めて、それがみつかったときの達成感についても、松岡さんは語っている。その瞬間が、翻訳の醍醐味なのだろう。

  そういったぴったりの訳を紡ぎ出すためには、豊富な読書量が必要なことは当然である。子どもの頃から本の虫であった松岡さんだからできた作業とも言える。「ハリー・ポッター」と出会ってから、民話や童話を何度も読み返したり、「ハリー・ポッター」の作者であるJ・K・ローリングと作風が似ていると言われた作家の翻訳を読み込んだりしている。

  そんなことを知ると、翻訳はただの訳出作業ではなくて、新たな創造の産物と思えてくる。もちろん、原書から離れることはできないが、翻訳の作業は、創造力と想像力を駆使した力仕事だということになる。

  新しい楽しみを思いついた。「ハリー・ポッター」の原書と、松岡さんの翻訳とを対比してみたい。この表現は、こんなふうに訳すのかということをたどってみたら、どんなにか面白いことか。そんなことをする暇どころか、根気だって今の自分にはないことを十分知ってはいるのだが、松岡さんの話に触発されて、そんな「おとぎばなし」を頭に浮かべてしまった。


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