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月刊年金時代2003年10月号
新・言語学序説から 第16回

「論争文化について」

 先日、JRPという団体が主催するシンポジウムに参加した。海外に住んで、日本語を勉強している16歳から18歳までの外国人がパネラーを務める。そのシンポジウムに参加した私は、不思議な感覚を味わった。

  10年ほど前にも、同様の経験をした。今回とは全く別なイベントであったが、その時も私がコーディネーターを務めた。日本人と外国人が入り混じったトークだったのだが、外国人のほうがはるかに雄弁に日本語で語っていて、「日本人の言語能力は、一体、どうしたのだろう」というショックを感じたのである。

  今回は、相手が高校生。日本語を学んでいる最中の外国人と、普通の日本人高校生とが一緒になってのディスカッションである。題材は食糧問題。食の安全、飢餓問題、農業のあり方、こういったことを論じることにして、司会は私が務めた。

  以前の経験があるので、それから起きたことは、予想通りではあった。日本人高校生は、あらかじめ用意した「作文」を読み上げる。外国人若者は、原稿なしで自分の意見を述べる。内容的には、日本の高校生のほうが、結構高度な情報を扱っている。しかし、聴いていて、面白くない。内容がいかに高度であっても、読み方がどんなに上手であっても、聴いている人の心を打たないのである。

  こういった現象は、しょっちゅう目撃している。ディスカッション慣れしていない人は、大体は原稿を読み上げるのである。コーディネーターを務める機会が多い私としては、あらかじめ、「原稿読むのはなしね」と言っておくのだが、緊張しまくっている論者には伝わらない。

  慣れない場で、あがってしまうと何も言えなくなってしまうのが心配なのだろう。恥をかくのがいやだという感覚かもしれないが、経験不足こそが原因だと思う。いい年をした大人が、それまでに、人前で自分の考えを発表する機会が少なかったことの反映と考えるのが自然である。

  大の大人でさえそうなのだから、高校生が「原稿読み上げ」の挙に出るのは、当然とも言える。だからこそ、外国の同年代の若者が、不自由な日本語をあやつりながら、自分の考えを堂々と述べる姿が、珍しく、そしてうらやましく目に映る。

  「不自由な日本語」と書いたが、実際には、今回参加した外国人の若者の日本語は、びっくりするほど達者であったこともつけ加えなければならない。彼らの日本語の学習期間が2、3年という短さであることを考えると、驚異的と思える。もちろん、今回参加した外国人は、相当の競争率で選抜された人材ばかりであることを考えれば、知的水準や日本語への関心度が格段に高いのは当然かもしれない。それにしても、わが日本勢の劣勢はどうしたものだろう。

  この催しを主催しているJRP実行委員会の池ア美代子専務理事の話を伺って、なるほどと思った。参加している外国の高校生が、日本の高校生との対話が成り立たないことにいらだちを感じている。ディスカッションの場面で、自分たちの意見をどう思うかと尋ねると、日本の高校生から返ってくる反応は、「素晴らしい意見だ」、「日本語がとても上手だ」といったことばかりで、本人がどういう意見なのかの表明がないという。日本の若者は、自分の意見というものを持っていないのかと、いぶかしく思い、いらだたしさを感じるとのこと。

  このイベントに参加してくる外国人の若者が、なぜ日本語を学ぶかといえば、自分として伝えたいことがあるからだという。伝えたい相手は、当然ながら、日本人である。逆に、日本人の考え方も知りたい。そういった思いが強いからこそ日本語を学んできた。それなのに、同年代の日本人のほうからは、そういった期待に応えるような反応がないのが、とても不思議で、寂しいのだそうだ。

  外国人の若者の日本語能力に感心してばかりはいられない。なぜに彼ら外国人の若者の日本語が、短い時間にかくまで上達したのか。語学の天才ということでもないらしい。伝えたいことがあるから、知りたいことがあるから。そのことに思いが至らなかった。

  外国語習得法の話をしているのではない。実のところ、日本人の若者の日本語能力だって、とてもあぶなっかしいものである。伝えようという思いが、出発点において不足しているのが、日本人の若者なのではないか。少なくとも、訓練されていない。

  となると、これは教育の問題である。私の学校生活を振り返ってみても、教室で生徒同士が意見を言い合う、先生に論争を挑む、挑まれるという経験が皆無に近い。私だけの経験ではないだろう。日本の義務教育、高等教育を通じた、教育の恐るべき欠陥ではないだろうかと思えてきた。

  家庭生活でも、家族の中で、社会問題、政治経済について、親と子が真剣に語り合うという場面はあるだろうか。教育の問題というよりも、国民性の問題、日本文化のありようなのだろうか。論争文化がない。そもそも「争」の字が使われているということからも、話し合いはすぐにやりこめあい、争いになってしまって、「和をもって貴しとなす」という規範の前に、論争はできたらないほうがいいという、暗黙の了解がある社会に我々は住んでいるのであろうか。

  だからこそ、教育が大事だということになる。教師は意識的に論争文化を育てて、生徒の論争能力を引き出すべきである。競争をあおることは日本の学校は結構得意であるから、生徒の議論能力を偏差値で表わすようにしたらいい。大学入学の内申書の重要事項にしたらいい。そうでもしなければ、知的水準では決して劣っていないはずの日本人高校生は、外国の高校生にとんでもない格差をつけられてしまう。

  わが宮城県庁でも、論争文化はなかなか定着しない。組織の縦割りを超えての議論は、むずかしい。互いに、遠慮がある。「俺は他の部局の干渉はしないから、お前もしないでくれ」的心理もある。しかし、まず足元から。これについて、明日から論争を始めよう。


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