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月刊年金時代2003年9月号
新・言語学序説から 第15回

「漢字について」

 新聞に漢字コンテストについての記事が載っていて、ついでに練習問題のようなものが示してあった。何の気なしにやってみたら、読み方、書き方それぞれ十問ずつある中で、わずかに読み方が一問できただけ。書くほうはゼロ。漢字についてそれなりに素養を積んできたと思っていたのだが、結果はこのとおりである。

 それだけ漢字は難しいということなのだろう。もちろん、漢字コンテストに出題されるようなものは、日常生活で頻繁に使うものではない。だから、できなかったからといって、憂鬱になることは全くない。

 実は、「頻繁に」とか、「憂鬱に」は、意図的(あとで、これについても一言)に使った。パソコン入力でこの原稿を書いているからこそ、気楽に使えるのである。パソコンは、その意味では便利。しかし、相変わらず、「憂鬱」という字は自分では書けずじまいになってしまう。

 これは、パソコンで原稿や手紙を書いている人に共通の感慨であろう。「パソコン任せなので、最近、漢字が書けなくなった」と言う人が多い。半分は嘘。もともと書けなかったのであって、パソコンを使うようになって急に書けなくなったのではない。もしくは、ぼけ症状のせいで書けなくなったのかもしれない。

 ともあれ、半分は本当である。だからこそ、前々回のこの稿で、「手紙を肉筆で書くようにしよう」ということを訴えた。手紙は想いを伝えるだけではない。漢字の練習という効用もあることを忘れてはならない。

 そんなめんどうな漢字なんかないほうがいいというのは、暴論である。ためしに、この稿の出だし部分の漢字を、すべてひらがなにしてみたらどうなるか。

  「しんぶんにかんじこんてすとについてのきじがのっていて、ついでにれんしゅうもんだいのようなものがしめしてあった。なんのきなしにやってみたら、よみかた、かきかたそれぞれじゅうもんずつあるなかで、わずかによみかたがいちもんできただけ。かくほうはぜろ。かんじについてそれなりにそようをつんできたとおもっていたのだが、けっかはこのとおりである。」

 どうですか、すらすら読めましたか。新聞をすべてひらがなにしたら、とても読めたものではない。

 テレビのニュースでアナウンサーが読む日本語は、すべてひらがなに聞こえるが、聴いているほうでは、一つひとつ漢字に置き換えて聴いているはずである。日本語の基本には漢字かなまじり文があって、それを習得して初めて日本語の使い手として完成する。音声言語のみで生きている幼児が、小学校に入って漢字を学び始める。そこから以後、その子の日本語世界は格段に広がりを見せることになる。

 人の名前だって、漢字があるからこそ面白い。よしこさんにも、芳子、義子、良子、美子、好子、佳子、淑子、由子、歓子、嘉子、祥子、喜子、善子といろいろあって、どの漢字が使われているかで、その人の性格も違って思えるではないか。

  住友生命が募集する「創作四字語」には、いつも感心させられる。その中で、2001年の入選作にあった「瞬禍終塔」というのが忘れられない。その年の9月11日、ニューヨークのワールド・センター・ビルへのテロのことであるが、「春夏秋冬」の変形である。同じ題材で、「世界共通」が「世界胸痛」になる。リストラばやりの世相を写して「心沈退社」というものがあった。元々の、「新陳代謝」自体が、リストラの背景にあることを考えれば、これは傑作であろう。

  こういう言葉あそびができるのが、漢字文化を持っている我々の特質である。千年以上前に、中国から漢字を移入してきた先祖に感謝しなければならない。しかも、そのまま移入するのではなく、漢字からひらがな、片仮名を「発明」した。漢字を訓読みにして、日本語に変えてしまうというのも、大した発想と驚く。昔の日本人には、言語学の天才が揃っていたのだろう。

  そんな天才の子孫たる我々だから、漢字が難しい、覚えられない、読めない、書けないなどと、泣き言を言っていては、祖先に申し訳ない。

  思えば、幼少の頃から、漢字書き取り、漢字テスト、お習字など、漢字にまつわる責め苦に耐えてきて、我々の今日がある。サ・ヨ(世)・キ(木)と唱えつつ、「葉」の字を何回もノートに書いていた頑是無い史郎少年は、一体小学校何年生だったのだろうか。「瓜につめあり、爪につめなし」といったおまじないのような言い方とか、「櫻」は「二階(貝)の女が気(木)にかかる」と覚えるとか、それ自体とても興味深い漢字習得法も思い出す。

  みんな苦労して、自分の母国語である日本語のうちの漢字部分と取り組んできたのである。そういう事情もあるから、漢字の読み書きは、その人の知的水準、教養の程度を計る尺度として解釈されてしまう。議場の質問で、「意図的」を「いずてき」と読んで、「やっぱりあの人では・・・・・・」と言われてしまった議員さん(宮城県内ではない)がいた。

  だからこそ、と言うつもりはないが、学校教育での漢字学習の重要さを訴えたい。ゆとり教育として、小学校で教える漢字の数を減らすという方針が示されているが、「漢字は難しい」という前提に立っているとすれば、いささか異議がある。漢字は絵のようなものであるから、言語的には、ひらがなより簡単かもしれない。少なくとも、親しみやすい、とっつきやすい。

  書けなくともいいではないか、読めればいい。読めなくともいいではないか、意味がわかればいい。雰囲気がわかればいい。そういった特性を持っているのが漢字なのだから、発達障害がある子どもにも、ひらがなより先に漢字を教えることは、とても有用だと私は思うのであるが・・・・・・。

 以上、言語学には素人(パソコンで転換すると「史郎と」になる)の私が、えらそうに漢字についての講釈をひとくさり。この稿全体に、漢字のまちがいがなかっただろうか。今回は特にそのことが気がかりである。  


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