月刊年金時代2015年2月号 「神について」 「初めに言ありき、言は神とともにあり、言は神なりき」は新約聖書ヨハネの福音書第一章第一節の言葉である。言葉イコール神なのだから、「新言語学序説」で「神について」書くのはおかしくない。 「神について」といっても、これを哲学的に扱うことは私には無理である。あくまでも、言語学的に、正確にはことば遊びとして扱うので、その辺のところはよろしく。 「神の国発言」というのがあった。当時の森喜朗内閣総理大臣が神道政治連盟国会議員懇談会の場で発言した。引用すると「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」というもの。マスコミは、いつものことだが、言葉尻をとらえて大いに批判したのを思い出す。 「日本は神の国」というのは、ある意味正しい。なにしろ、八百万の神がいるのだから。ちなみに、八百万を「はっぴゃくまん」と読むと嘘くさいが、「やおよろず」と言われると信じたくなる。意味は、「無限の」ということ。自然にあるものすべてに神が宿っているということである。山の神様、田んぼの神様、台所の神様など。「トイレの神様?」(厠神)までいる。 神無月は旧暦の10月のこと。各地にたくさんいる神様が、この時期に出雲大社に集まってくるので、神様がいなくなるから神無月。出雲地方だけは、神在月と呼ばれるのがよくわかる。出雲大社に八百万の神たちが集結する様子を想像すると、なんだか楽しくなる。 神の国だけあって、日常生活でも神様がよく出てくる。言語学的にいうと、「神」という言葉が気軽に使われるのである。気軽にとは、神様を敬うという気持ちなしでという意味だが、そういうことでいうと、英語表現で、驚いたときに「オーマイゴッド!」というのと共通するものがある。 「苦しいときの神頼み」というのも一例である。傑出した才能を示す子どものことを神童というのも、結構、気軽な使い方である。「なんとかの神様」というのも気軽に使われる。尾崎行雄は憲政の神様、菅原道真は学問の神様、志賀直哉は小説の神様。志賀直哉には「小僧の神様」という作品がある。だからだろう。 「山の神」というのもある。もともとは、山を守る神のこと。女の神様であることが多いことから、俗語では、自分の妻のことをいう。だいたいは古女房であり、亭主にとっては怖い存在である。「うちの山の神が怖いから、二次会は行かずに早く帰る」といった使い方をするのだが、最近はあまり聞かなくなった。 それに代わって最近出てきた「山の神」は、箱根駅伝の5区山登りで驚異的なタイムで走る選手に与えられる称号である。初代山の神は、順天堂大学の今井正人。2年生で11人抜き、3年生で5人抜き、4年生では驚異的な記録で3年連続の区間賞を得る。テレビ中継で「山の神、ここに降臨!」と言われたのが、「山の神」のはじめである。2年後、東洋大学1年生の柏原竜二が今井の区間記録を17秒上回るタイムの新記録で走る。以後、4年連続5区区間賞、「新・山の神」と呼ばれる。そして、柏原の記録を24秒上回る1時間16分15秒で5区を走り、青山学院大学の初優勝に貢献したのが、164a、43`その名も神野大地である。「新・新山の神」の誕生。大好きな箱根駅伝で、ついつい筆が走ってしまった。 つぎに、三種の神器について。八咫の鏡(やたのかがみ)、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)というのが三種の神器である。神器というのだから、単なる宝物ではなく、神がかっている物である。天孫降臨という神話の世界であるが、その際に天照大神から授けられた宝物として伝わっている。これが古代から歴代天皇に継承されてきた。天皇即位の際の皇位継承の証である。 時代は、1950年代後半、神武景気の頃に飛ぶ。登場してきたのがテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫である。電化製品の三種の神器として、庶民のあこがれ、豊かさの象徴であった。たまたま三種あったから、そこからの連想として「神器」が使われたのだろうが、安易過ぎる発想ではないか。ここにも、「神」が気軽に使われる言語法を見る。 1960年代の高度経済成長期には、三種の神器に代わって、3Cが登場してくる。カラーテレビ、クーラー、カーの三種である。豊かさが日本人の間に行き渡ったからか「神器」と崇め奉る気配がなくなり、「3C」で済まされてしまう。 話題をがらりと変える。神仏習合について。ものの本には、「日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として習合(再構成)された宗教現象のこと」とある。奈良時代以降の現象であるが、考えてみればおかしなことである。神道と仏教とが一緒になることを日本人はすんなり受け入れる。これも神の国ならではのことなのだろうか。 明治政府は、革命政権らしく国教をそれまでの仏教から神道に変えた。天皇は万世一系の現人神とされた。この「現人神」という表現も、考えてみれば、すごい言い方である。「天皇は生きている神様」というのも相当おかしいが、その神が世襲となると、もはや理解不能である。同時代に生きた人たちは、このことを心から信じていたのだろうか。 神道と仏教の親しい関係は、一部で見られた廃仏毀釈にもかかわらず、その後も続いている。子どもの頃、近所の大崎八幡神社に初詣に行った帰りには、敷地を接する龍宝寺に寄り、そこでも手を合わせてきたのを思い出す。 ところで、全国にある神社とお寺の数もほぼ同数である。神社が81,320,お寺が77,467である。教会は7,164。ちなみに、コンビニエンスストアは上位14チェーンベースで53,140店舗(2014年3月末)である。神社の数のほうが、今のところは、まだ多いことに、少し驚く。 神をも畏れぬこの駄文、お許しあれ。唐突に終わる。
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