浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

月刊年金時代2003年7月号
新・言語学序説から 第13回

「手紙について」

 前回、電話について書いた。携帯電話、Eメール、ファクシミリが大手を振って活躍している中で、郵政省改め日本郵政公社経由の、手紙のほうはどうなっているのか、大いに気になるところである。

  こういった時代であっても、手紙の存在意義は、決してなくならないというのが、今回言いたいことである。しかも、ワープロで打ち出す文面ではなくて、(下手でも)自筆で書いた手紙こそが、価値があるということを力説したい。

 私は結構筆まめなほうである。(下手でも)と書いたのは、自分のことを言っている。悪筆であっても、自分の肉筆で書いた手紙であるからこそ意味がある。私の場合、知事になってからも、自分で書いた手紙は、決して職員に代筆をさせたものとは思われない。どうせ代筆をさせるなら、もっと上手い人に書かせるだろうと見られるからである。

 十五年前、厚生省で障害福祉課長をやっている頃、手紙を書きまくった。仕事の上で知りたいことがあると、手当たり次第に質問状を書いて、全国各地にいる、障害福祉で活躍している人たちに手紙で助けを求めた。今でも、その頃のことを覚えている人がいて、「太い万年筆で書かれた、特徴のある文字の並ぶ手紙で質問がどんどん投げかけられた」という思い出を語る。電話で「教えてよ」では、なかなか要領を得ない。相手方は、ワープロでない肉筆の手紙で来ると、質問への返事は、まじめに書かなければならないという気になるらしい。

 「太い万年筆で」というのは、私の愛用するモンブランの太字用万年筆のこと。外形そのものが,太くできている。アメリカにいる頃買い求めたもので、確かに、値段は高かったのだが、長持ちがする。「万年」とまではいかないが、二十年以上は使い込んでいる。「弘法は筆を選ばず」の反対で、私の場合、この万年筆でないと手紙は書けない。

 手紙だけでなく、ハガキもよく書く。縦の罫線入りのハガキを愛用している。平成六年から始まった「知事への手紙―知事さん、あのね」という企画で、年間千通以上のお手紙が県民から寄せられている。最初の二、三年は、そのうちの七割ぐらいには、一枚一枚、例のモンブランの万年筆を駆使してハガキで返事を書いていた。半分は意地であるが、やはり、意地だけでは続かない。今は、別な方法で返事をしているが、ハガキはそれほど長々と書かなくていいので、手紙に比べれば楽であるということはあった。「代筆ではない」というのは、実は、この時のことを言っている。

 なんといっても、手紙は文化である。奈良時代、平安時代から、わが日本では、大事なことは手紙を介して伝えられた。その肉筆の手紙のいくつかは、時代を経て現代に残っているのもうれしい。恋人どうしが、手紙に乗せて相聞歌をやりとり。こんな文化が日本にあったというのも、誇らしいではないか。

 ハガキにしても、手紙にしても、むしろ、届くまで時間がかかるのがいいのではないかという気がしている。Eメールやファクシミリでは、瞬時に相手に届いてしまう。便利ではあるが、ありがたみに乏しい。情緒に欠ける。やはり、日本郵政公社の手を煩わして、相手方の郵便受けにお届けをするというところに、趣があるのではないか。

 ビートルズ、カーペンターズが歌った「プリーズ・ミスター・ポストマン」という歌がある。日本語で言えば、「郵便屋さん、待ってくれ、恋人からの手紙は来てないのかね」という歌詞は、Eメールのみの世の中では、通じなくなる。わがエルヴィス・プレスリーの一九六二年のヒット曲、「心の届かぬラブレター」は、原題は「送り主に返送せよ」というもの。ちょっとした喧嘩のあと、恋人に送る謝罪の手紙が、ことごとく「返送せよ」の印がついて戻ってくるという歌詞である。こういうコミカルな歌も、Eメールでは成り立たない。

 歌の話のついでに、もう一つ。エルヴィスもレパートリーにしているスタンダード・ナンバー、「ラブレター」という曲。エルヴィスは「手紙のサインに口づける」という歌詞を、心をこめて、しっとりと歌っている。これを聴くたびに、Eメールではこういうわけにはいかないよな、ということを考えている。

 届くのに、手間と時間がかかるということも、郵政公社経由の手紙のいいところ。コミュニケーションに、一定の時間がかかるということだから、双方に考える時間ができる。別に、ラブレターに限ったことではない。感情的になりかねない問題があったとき、電話ならどなりあい、Eメールでも丁丁発止になってしまう。手紙で悠長にやりとりしている間に、とげとげしさがなくなるという効用もありはしないか。

 結局のところ、この稿では、手紙、ハガキの効用を説いて、諸君、こんな時代でも大いに手紙を書こうじゃないかと言いたいのである。別に、日本郵政公社に頼まれたわけでもない。手紙の効用をもっとあげれば、切手が貼ってあるのも情緒があるし、便箋には書き手のにおいだってついている。手書きの手紙から伝わる思いには、相手方の筆跡から来るものもある。つまり、手書きの手紙には、人柄が現れる。これも情報であるから、こちらのほうが、電子メールよりもよほど情報量が多い。

 「言語学」といった面からも申せば、手紙は言語を磨く手だてであることを力説したい。日記と違って、手紙は相手に意思を伝えるものであるから、ことのほか言語を意識する。だからこそ、その人の言語能力を高めることにつながる。Eメールでも同じかもしれないが、やはり、手書きの文章にこだわりたい。

 いずれ、このシリーズで「パソコンについて」、「ワープロについて」というのを書くつもりであるが、ワープロばかり使っていると、漢字がいずれ書けなくなるよという警告を発したいと思っている。そうそう、「漢字について」というのも書かなければならない。いずれにしても、自分の手で、(下手でも)手紙を書くようにしないと、漢字を書けなくなってしまう。これは、自分に対する警告でもある。


TOP][NEWS][日記][メルマガ][記事][連載][プロフィール][著作][夢ネットワーク][リンク

(c)浅野史郎・夢ネットワーク mailto:yumenet@asanoshiro.org