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月刊年金時代2014年7月号
新・言語学序説から 第126

「社説について」

 新聞には社説がある。その社説が、読者にあまり読まれないというのが定説になっている。丸谷才一の「女ざかり」は女性論説委員を主人公にした面白い小説であるが、その中では、「論説は読まれることまことに少なく、一説によると全国の論説委員を合計した数しか読者がいない」と揶揄されている。

 私が関係する大学(複数)での実話である。学生に「レポートを社説のような文体で書いてみなさい」と指示したら、「先生、社説って何ですか」と訊かれてしまった。また、「ある日、ある新聞の社説を引用して、あなた自身の意見を述べること」という宿題を出したら、「天声人語」の感想を書いてきた学生がいた。

 つまり、学生は社説を読んでいない。もっと言えば、読んだことがない。そもそも、最近の学生は新聞を読まないのだから、こうなるのは当然のことである。  「ネットは無料です。ネットを見れば、世の中のことがわかります。ニュースだって読めます」というのが、学生の言い分である。だけど、ネットには社説は載っていない。ラジオ・テレビにも、社説はない。「文藝春秋」や「中央公論」などの総合月刊誌には、個人の意見は満載であるが、社説にあたるものはない。つまるところ、社説というのは、新聞に特有なものである。

 社説を書くのは大変である、と思う。このごろの社説は、一日に2本というのが多いが、その2本の社説の題材をどうするか。毎日のことであるから、まずは、ネタ探しに苦労する、と推察する。逆に、突発的出来事について論説するのは、情報も限られ、熟考する時間もない中では、ストレス一杯となるのは容易に想像がつく。

 題材が決まったら、論説委員数名で どういう内容にするか、議論をするらしい。「今日の執筆責任者」が原案を書いて、それを委員のみんなが読んで、意見を言い合うのだろうか。甲論乙駁、丁々発止の激論となることもあるが、そうなったらそういう題材は没にするしかない、と思う。そういう場面を見学したら面白いのだろうが、新聞社が見学させてくれるはずはない。

 社説の文章には主語がない。あえて主語を入れるなら、「わが社は」ということになる。Iではなく、Weという気持ちで書かれる。だから、国論を二分するような話題は、そもそも、題材として取り上げにくいのかもしれない。

 その社説が、このところ、特に面白い。新聞社ごとに、社説の論調が大きく違っているからである。そのものズバリ、「集団的自衛権、新聞社説はー」という記事が5月末の朝日新聞に掲載されていた。

  「在京6紙、賛否割れる」という見出しで、全国紙と地方紙の集団的自衛権の行使容認についての扱いの違いが表になっている。ちなみに、賛成=○、反対=×、その他=△とすると、○が産経新聞のみ、×が朝日、毎日、東京であり、△が読売と日経となっている。地方紙の北海道新聞、信濃毎日新聞、京都新聞、沖縄タイムスは×である。この問題に関しては、新聞の顔である社説の表情は、ニコニコ、むっつり、怒りといろいろな顔が見られる。これが興味深い。

 社説の論調が新聞社ごとに大きく違うのは、集団的自衛権の問題だけではない。原発再稼働など原発問題では、ニュアンスの違いどころでない論調の違いがある。靖国神社参拝、慰安婦問題,積極的平和主義など「戦後レジームからの脱却」を目指して、安倍晋三首相がはっきりした言動をしているのを受けて、社説がこういう問題に対して、賛成・反対の論調を張りやすいという傾向がある。複数の社説を読み比べて、論調の違いを比較する楽しみを読者は味わうことができる。

 アメリカの新聞は、大統領選挙の時期になると、どちらの候補者を支持するかを紙面で明らかにする。社説で、明確にそのことを公表する。前回の現職オバマ(民主党)対ロムニー(共和党)の大統領選挙では、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストはオバマ支持、ニューヨークポストやヒューストンクロニクルはロムニー支持だった。支持政党は新聞ごとに固まっているわけではなく、選挙のたびに支持政党が変わることがある。

 権威のある大新聞がどちらの党を支持するかは、選挙情勢にも影響を与えるだろうが、そんなことは読み込み済みというのが、新聞社の態度である。これがアメリカ流ジャーナリズムの伝統というものだろうか。

 日本の新聞は、まだここまではいかない。衆議院総選挙直前の社説で、「当紙は、各党の公約や、これまでの各党の政治活動、現下の政治状況を真剣に考慮した結果、今回の選挙においては、○×党を支持することとした」とやったら面白い。でもやらないだろう。

 やらない理由は、想像がつく。「社内には、いろいろな党の支持者がいて、社論を一つの党支持にまとめることはできない」。そういう事情は、ニューヨークタイムズの社内でも同じはずなのだが。ホンネ部分としては、「支持政党表明後の反響の大きさと混乱の可能性を考えると、決断する勇気がない」というところだろう。

 何年後か、憲法改正の発議がなされ、国民投票を目の前に控えた時期の社説の扱いを、各新聞社はどうするつもりなのだろう。「国民各位は、この問題を真剣に受け止め、十分に、慎重に考慮し、正しい判断をすべきである」といった社説を載せ、他の紙面では、賛成論と反対論の比較を「客観的に」示す記事を書いて終わりとなりそうで、心配している。

 ジャーナリズムの使命とは、中立・公平な紙面を作ることだけではないはず。社説についていえば、社説は問題を解説、分析して終わりということでは済まない。新聞社としての意見を明確に示すべきものである。憲法改正是か非かという国論を二分するような重要な問題を前にして、社説は逃げてはならない。腰をひいてはいけない。

 軽いつもりで書き出した文章が、だんだん、熱を帯びてきてしまった。ジョークの一つも出ない、硬い原稿である。 


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