月刊年金時代2014年5月号 「道徳教育について」 「節度、節制を心がけて」 「希望と勇気をもちくじけずに」 「自律的に責任ある行動を」 「誠実に明るい心で」 「進んで新しいものを求めて」 「短所を改め、長所をのばして」 これらの標語、スローガンは何だろうか。閣議で安倍首相が、閣僚の面々に、「安倍内閣の行動指針」として示したものか。東京電力の社長が、新入社員に訓示したものか。いいえ、この標語は、文部科学省が作成した「私たちの道徳」という教材の小学校五・六年生版の第一章「自分をみがいて」の中で掲げられているものである。 この標語には、誰も文句をつけられない。学校生活だけでなく、会社での仕事の仕方の指針ともなる。社会生活でも、この標語の精神を守っていけば、立派な人生を歩めるし、その人自身は、「人格者」として尊敬されるだろう。 誰にも文句をつけられない標語であるが、こういうのを「毒にも薬にもならない」という。こういう標語が冒頭に示されているのだから、「私たちの道徳」という教材は、さぞやつまらないものかというと、そうでもない。小学校五・六年生版全196頁の中には、有意義な言葉やためになる物語がたくさん詰まっているからややこしくなる。 「節度、節制を心がけて」のところでは、「『もったいない』を世界共通の言葉に」というワンガリ・マータイノーベル平和賞受賞者の言葉が紹介されている。「希望と勇気をもって」の項では、体操の金メダリスト内村航平に加えて、橋尚子、豊田佐吉、森光子、向井千秋の名前がある。物語はヘレン・ケラーとアニー・サリバン、そしてイチローを扱っている。 読み進むと、結構面白い。紹介されている名前でも、幅の広さに驚く。マリー・キュリー、中谷宇吉郎、池田菊苗、松下幸之助、野口英世、宮沢賢治、福澤諭吉、マザー・テレサ、坂本龍馬、ピエール・ド・クーベルタン、新渡戸稲造、千玄室、三枝成彰。何人かは、50年前の史郎少年が読んだ「偉人の少年時代」に登場する。何人かは、現在も活躍中の日本人である。道徳の教材で紹介されているのだから、ご本人たちにとっては、うれしいことに違いない。一方で、ものすごいプレッシャーでもあるだろう。仮に、仮にの話だが、もし、私にその話が来たら、固辞させてもらう。「死ぬまで道徳的に生きよ」のプレッシャーに耐えられない。 私の小学校時代にも、道徳の時間があった。何を習ったのか、まったく覚えていない。中学校では、道徳の時間があったかどうかも記憶にない。当時は、「道徳」は正式の教科ではなかった。教科書もない。専任の先生もいない。その頃から、道徳の教科化は、一部の人たちにとって、悲願であり続けた。その動きが安倍内閣の下でにわかに力を得て、2018年には実現しそうな流れとなっている。 道徳が教科になるといっても、普通の教科とは違って、教員の専任免許は設けず、点数での成績評価はしない方向である。普通の教科とは違う「特別の教科」という位置づけになる。しかし、教科に格上げになることによって、文部科学省の力の入れ具合が格段に強まるはずである。 今回の道徳の教科格上げの議論の端緒は、いじめ問題である。大津市でいじめを受けた中学生が自殺したことが、マスコミでも大きく取り上げられ、日本中で議論が巻き起こった。「こういうことが起きるのは、道徳教育がしっかりやられていないからだ」という一部の声に力を得て、道徳の教科化が急げ急げで俎上に載せられた。 こういったことが背景にある。そう考えると、道徳教育を進めれば、いじめは防げるということを信じている人が政府部内にたくさんいることがわかる。また、この問題を検討した「教育再生実行会議」、「有識者会議」のメンバーの中にも、「いじめ防止に道徳教育が有効」の信奉者が多いということになる。 道徳教育を進めることは悪いことではない。しかし、いじめをしないような立派な人格を育てるというのが目的なら、道徳教育は有効ではない。「いじめは悪だ。いじめをしてはいけない」と教育することだけで、いじめがなくなるものではない。 いじめをする生徒個人を矯正することだけでいじめがなくなるものではない。なぜ、その生徒はいじめをするのかは、その生徒が属する教室(集団)がいじめを許容しているから、さらに言えば、いじめを助長しているからである。 「いじめ」というと、短絡的に「弱いものいじめ」と発想しがちだが、いじめられるのは、その生徒が弱いからではない。集団の同質性からはずれる生徒がいじめの標的になることが多い。皮肉なことだが、道徳教育で「集団内の秩序を守り、集団から逸脱するなかれ」と強調することが、いじめを助長することになりかねない。 いじめをなくすには、教室の集団としての質を高めるしかない。生徒一人一人の個性が尊重される集団であるのか。集団内に自由で活発なコミュニケーションを認める雰囲気があるかどうか。いじめ防止は、いじめる生徒個人の問題というよりは、その教室全体、つまり集団としての問題である。これを道徳教育の中でどう教えるのか。そんなことができる教師がたくさんいるとは、とても思えない。 こう書くと、道徳教育無用論と誤解されるかもしれない。道徳教育として、毒にも薬にもならない標語を並べても、真の道徳教育にはならない。偉人の少年時代を紹介し、高潔な人格の人間の物語を書き連ねても、道徳的な人間に育つわけではない。そもそも「道徳的な人間」というのが胡散臭いのだが、それはさておきである。 真の道徳教育は、とてもむずかしいということを言いたい。教える教師の質をどうやって高めるのか。その教師が不道徳的生き方をしているなら、洒落にもならない。 浅薄な道徳教育、愛国心を強調するような道徳教育、毒にも薬にもならない道徳教育が、いかに無意味で、時に有害なのかに気づかせるのが、本物の道徳教育なのかもしれない。これは、不道徳的な結論だろうか。
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