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月刊年金時代2014年3月号
新・言語学序説から 第122

「報道について」

 報道で一番大事なことは何か。公正中立であること、偏向していないことだろうか。そうではない。一番大事なことは、嘘を書かない、虚偽の放送をしないことである。一般読者、視聴者に報道の嘘を見抜くことはむずかしい。大新聞やテレビ局が嘘の報道をするはずがないと信じている人が大多数である。たまたま嘘の報道を目にしても、それが真実だと信じてしまうことによって及ぼされる害は、とても大きい。

 公正中立であることも大事だが、そもそも報道にとって公正中立を保つことは不可能に近い。それが証拠に、同じ事件について、A新聞の報道を中立的報道と信じる読者から見れば、B新聞の報道は偏向していると思える。逆も同じ。どっちもどっちである。

 公正中立というのは、相対概念であって、こっちから見れば偏向している、あっちから見ればそっちこそ偏っていると言われる。新聞に「公正中立であれ」といっても無理であり、テレビ局に「偏向報道はやめろ」といっても意味がない。

 報道を目にするほうとしては、新聞にもテレビ局にも各社特有の立ち位置があることを認識しておくことが大事である。右翼的、左翼的という分け方ではなく、保守かリベラルかという分類である。たとえば、産経新聞は朝日新聞よりは保守的であり、毎日新聞は産経新聞よりはリベラルである。原発問題、靖国参拝、辺野古への基地移転などについては、新聞論調が各社ごとに大きく違っていて、そこを読み比べるのも興味深い。こちらがいいとか、悪いとかの問題ではない。

 NHKは公共放送として、特に厳格な公正中立を求められている。他の放送局と違うのは、NHKが視聴者からの受信料で運営されているからである。すべての視聴者を満足させるためには、公正中立な番組づくりでなければならない。受信料を払う視聴者としては、政治に左右されない不偏不党の公共放送を期待している。

 政権側にありがちなことであるが、NHKを国営放送と勘違いしている。最近の例では、政権内にNHKの報道が原発やオスプレイの問題で政府の方針とは反対の方に偏っているとの不満がくすぶっていた。NHK の松本正之会長に対しては、「偏向放送はやめろ」といった声が、与党議員から聞かれた。松本会長が任期切れになると、新会長に安倍晋三首相寄りと見られる籾井勝人氏を送り込み、新しい経営委員に百田尚樹氏、長谷川三千子氏を任命した。こういった一連の人事は、「公共放送への政治介入が疑われかねない」として問題である。

 そんな中で、籾井新会長が1月26日の就任記者会見で、従軍慰安婦問題などについて「とんでも発言」をした。「安倍首相寄りの人事」との批判がある中で、「オウンゴール」をしたようなものである。

 この件はともかくとして、政権側は報道により批判されることには、露骨に不快感を示すものであり、密かにそういった報道を抑えることさえしかねない。政権にとって都合の悪い情報が報道により明らかになることを極端に恐れている。報道側はそれに屈してはいけない。国民の知る権利を守る役割もある。つまりは、報道は政権側から見れば、いやな存在であり、そうあることが存在意義でもある。

 私が宮城県知事をしていた時の話である。我が家では、地元紙の河北新報以外に、主要全国紙をすべて購読していた。新聞を読んでいる妻が、時々怒り出す。「あなたについて、こんな悪口を書いている。ひどい、おかしい、くやしい」という具合である。怒る妻に私は諭す。新聞は知事でも何でも批判するのが商売だ、新聞が褒めるようになったら、新聞でなくなる。「あなたはよく出来た人ね」と妻からは嫌味が返ってくるが、本当だから仕方がない。

 新聞は批判するのが商売ではあるが、こちらとしては少しでも好意的に報道してもらいたいと思うのが正直なところである。記者会見では、H市長や二人のI知事が時たま見せた、強面、高飛車な対応をすることは皆無であった。取材要望には喜んで応じ、やさしく丁寧に対応するよう心がけた。

 北風と太陽のようなものである。やさしくしてもらえば、記者さんだって生身の人間である。批判的な記事を書くにしても、知事の人格を攻撃するようなことにはならない。逆も真である。北風にビュービュー吹き捲くられれば、嫌味な記事を書きたくなる。記者にやさしく接するのは、人間性の問題ではなく、損得の問題、つまり生活の知恵であることも言っておきたい。

 新聞社、放送局、出版社、通信社などの報道機関は、社会的な影響力ということでは、司法、立法、行政の三権力に続く「第四の権力」と呼ばれることもある。一般大衆の利益を守るために、国家権力に立ち向かう姿勢こそが、報道機関の存在意義である。  特定秘密保護法案の審議、成立過程において、報道機関の多くが「国民の知る権利が制限される」として、激しい批判を繰り返した。これに対して安倍首相をはじめ政権側は、「それは誤解だ。考え過ぎだ」と反論した。報道機関としては、考え過ぎぐらいで丁度いい。それだけ、知る権利の制限には神経質であるべきである。国民の知る権利を守るために、それが政権にとって知られたくないことでも正しく報道するのが報道機関の使命である。それが民主主義を育てる。

 報道する側の強い使命感、報道される側の冷静な態度、報道に接する側の正しい理解が民主国家の基本である。

 読者、視聴者の情報リテラシーの重要さも指摘したい。報道を鵜呑みにするのではなく、批判の目を失わずに報道に接すること。必要があればマスコミの報道ぶりに対して批判の声を上げること。これが正しい報道を担保する。

 いつになく硬い論調になった。こういう言説も鵜呑みにしないで欲しい。おかしかったら、批判の声を上げて欲しい。書いた自分がこういうことを強調するのは、何だか変だなと思いつつ。


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