![]() 月刊年金時代2013年10月号 「言語生活の遍歴について」 私には、海外も含め、言語、方言の違うところをあちこち住み移った経験は多くない。言語遍歴というほどのものはないのだが、65歳という時点で自分の言語生活を振り返ってみたい。 私は昭和23年(1948年)2月8日の生まれ、出生地は岩手県大船渡市盛というところ。父親がこの地で県立病院の内科医長をしていた。仮の住まいであるから、地縁も血縁もない。私がこの地にいたのは、数ヶ月だけ。言語生活は全くない。標準語で笑い、万国共通語で泣き喚いていたらしい。せめて数年留まっていたら、「じぇじぇじぇ」と口に出して驚く子に育ったかもしれない。 父の故郷は宮城県登米郡北方村(現登米市)で、当時、無医村だった。請われてその村の診療所の医師となり、家族5人も大船渡市を去って北方村に移住。近くに建物など人工物のない、牧歌的でのんびりしたところである。隣家は子どもの足では行けないところにある。学齢前だから、同級生と話すこともない。私の言語生活は、二人の姉を中心とした家族との会話に限られる。おかげで、父の親戚などが話す典型的なズーズー弁とは無縁で幼少期を過ごすことになった。 5歳になって、父親が宮城県庁に職を得て、母親の故郷である仙台に移り住んだ。言葉も通じない、子どもの教育環境も良くない東北の片田舎での生活に嫌気がさした母(93歳で存命)が、父を説得(脅迫?)して家族ごと無理矢理仙台移住を決行したらしい。医者の仕事を取り上げられ、故郷を離れる父が可哀想、母はわがままと姉二人が今でもそういって母親を責めるエピソードである。 幸か不幸か、ズーズー弁に精通することなく、疑似標準語が飛び交う仙台で暮らすことになった。それまでの言語生活と友人関係の貧しさから、5歳の史郎少年(私のこと)は寡黙でシャイ(引っ込み思案、恥ずかしがり)である。近所の聖ドミニコ幼稚園に途中入園した史郎少年は、カルチャーショックを味わう。園児たちの都会的であか抜けたいでたちに圧倒される。疑似標準語を自在にあやつるのに驚いてしまう。登園をいやがり、母親のエプロンにすがって泣きながら抵抗する5歳児(私のこと)は、近所でも評判であった。 なんとか幼稚園を終えて、仙台市立木町通小学校に入学した史郎君は、もはや田舎のシャイな生徒ではない。クラス内の中心的な存在として、よくしゃべり、よく動き回る少年に変身した。 小学校五年生の国語の授業で、今は亡き樋口邦彦先生がクラスのみんなに向かって、「君たち、日本語にはアクセントというものがあるのだよ」と、無アクセントことばで告げた。そして、東京から転校してきた山崎百合子ちゃんに「君は東京ではどこに住んでいたのか」と尋ねた。「大田区です」と答えるかわいい百合子ちゃん。「聴いたか、みんな。今の『大田区』の「た」にアクセントがある。これがアクセントというものだ」。私にとって、これは驚天動地の出来事とは言わない。しかし、仙台弁は福島、茨城、栃木あたりの言葉と同様に、無アクセント言語圏に属することを改めて認識した事件であった。 仙台市立第二中学校に進んで、私はさらに変身した。同級生の小野寺昇君や野村明君の影響も大きい。クラスメイトを笑わすことがうれしい。人を笑わすことはむずかしいが楽しい。そういったことを実地に学んだ。休み時間に机の上に乗って、ラジオから仕入れた落語を演じて仲間を笑わせた。人を笑わすのが言語の力ということも、実地で学んだ。それが快感であることを知ったのが、その後の人生において、良かったことなのかどうか、未だに結論に至っていない。 進学した仙台二高は、当時は男子校である。ここで「二高言葉」に染まった。仙台弁の中でも汚い言葉、乱暴な話し方の典型である。「んだべぇ」、「そうだっちゃ」、「しっぱだくぞ、この」、「いぎなりおもしゃぐねえ」(とても不愉快)などなど。東北人は無口で口下手というのは、偏見である。少なくとも、仙台二高出身者は、雄弁というか、しゃべくりが多い。話そうと思えば、無アクセントではあるが、堂々の標準語を話せる。 大学は東京大学にあこがれて入学した。東大へのあこがれというより、東京にあこがれていた。あこがれの一つは、東京人が話す標準語の美しさである。東京では、みんなが歯切れのいい、正しいアクセントの、美しい言葉を話すものだと信じていた。そんな言葉に囲まれて暮らすのは、どんなに素敵なことだろう。 大学ではクラスの半分以上が、地方の高校の出身者であった。いろいろなお国言葉が飛び交う。大教室での授業が始まる前、私たち仙台出身の学生が一緒になって、大きい声で話をしていた。前の席にいた図体の大きい学生が振り向いた。その学生に「君たち、仙台出身だろ」と言われたのには驚いてしまった。自分たちは標準語で話していたつもりなのに、なんでわかったんだろう。 東京での学生生活を続けるうちに、アクセントを時たま間違えながらも、標準語もどきを話すようになった。そうこうするうちに、国家公務員になり厚生省に入省ということになる。言語環境は特に変わらない。職場内での会話などは、一般と同じ。仕事を覚えていくうちに気がついたのは、霞が関村には官庁言語という特殊な言語世界があるということである。 職員同士の会話で、「わが社では・・・」というのが「わが厚生省」のことだと知った。先輩職員が「あいつは俺が強姦するから」と言うのに恐れ戦いたら、無理矢理、力づくで説得することだと知って、二度びっくり。その他、説明なしで。「廊下とんび」、「タコ部屋」、「お経読み」。 ここまでで紙数が尽きた。この続きは来月号で。次回は、霞が関文学、米国留学、北海道庁への出向、宮城県に戻って知事をやる、今どき大学生の会話について書くつもり。私の言語生活の変遷はまだまだ続く。乞うご期待。
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