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月刊年金時代2012年7月号
新・言語学序説から 第102

「美しい言葉について」

 小説を読む楽しみ、詩歌に触れる喜びは、美しい日本語に出会うことである。日本語の美しさには、日本語を外国語として始めた人のほうが、敏感らしい。日本人より日本通の詩人、アーサー・ビーナードの「日々の非常口」(新潮文庫)というエッセイ集では、日本人も気がつかない美しい言葉が紹介されている。

 彼は「残雪」を次のように讃えている。「その端正な二字には無駄がない。響きも引き締まって、かといってきれいすぎず、濁音のラフなざらつきも残る。そこにぼくは、一種の悲壮美さえ感じる」。

 「残雪」の二文字に「濁音のラフなざらつき」まで気がつく日本人は少ない。悲壮美まで感じる日本人はもっと少ない。アーサーが漢字の音読みのシマリのよさがいいというのが、「馬耳東風」、「一石二鳥」である。これに対応する英語のことわざは、冗長でシマリがないという。

 日本語の美しさを感じる場面は、人によってさまざまだろう。私の場合は、佐藤春夫の「純情詩集」の中の一編が、美しい言葉に触れた最初の経験として記憶に残る。「野ゆき山ゆき海辺ゆき 眞ひるの丘べ花を籍き つぶら瞳の君ゆゑに うれひは青し 空よりも」(「少年の日・春」) 声に出して詠むと、そのリズムの良さが心地よい。

 太宰治の小説の中には、印象に残る美しい表現が数多くある。「富士には月見草がよく似合う」(富岳百景)、「メロスは激怒した」(走れメロス)、「津軽」、「惜別」、「斜陽」にも、美しい日本語が散りばめられている。夏目漱石、森鴎外、志賀直哉、谷崎純一郎、川端康成、三島由紀夫など、巨匠の作品に触れれば、美しい日本語表現の世界に遊ぶことができる。日本語っていいなあと実感する瞬間である。

 こういった美しい日本語があるのに、最近、「美しいだけの日本語」が氾濫しているのが、気になって仕方がない。美しいだけで、意味不明の日本語に「人を惑わす」、「嘘くさい」、「陳腐な」、「耳ざわりがいい」といった形容詞がつく。

 中身を理解しないままに、そのかっこよさだけで賛同したくなる言葉が「美しい言葉」である。この項の前半で書いた、ほんとうに美しい日本語とは似ても似つかない。そんなことに目くじらを立てることはないと言われそうだが、「美しい言葉」を発する本人がその言葉の美しさに酔ってしまう傾向は見逃せない。「美しい言葉」を聞かされる人たちの付和雷同も危険である。

 「コンクリートから人へ」というのが、前回衆議院選挙の際の民主党のマニフェストとして出された政策である。単なるキャッチフレーズなら、耳に快い美しい言葉でよしとする。しかし、これは政策である。公共事業にはさようならをして、それに替わって、人間を相手にした地域起こし、福祉、教育、子育て、雇用対策などの政策を優先しようという政策転換を標榜する言葉として使われている。所得の公正な分配といった社会政策に力を入れるという意味もある。そう説明されると、なるほどと共感する人も多いだろう。「コンクリートから人へ」という言葉が、なんとなく、かっこいいし、わかりやすいから、なおのこと、「そうだ、そうだ」になりやすい。この「なんとなく、かっこいい」というのが曲者である。

 改めて、「コンクリートから人へ」の中身を考察してみよう。理屈っぽく論じると、「公共事業」と「人間のためになる施策」を対置させるのはおかしい。これからは、公共事業はほどほどにして、人間のためになる施策に力を入れようというが、公共事業で造られる道路にしても、空港・港湾にしても、ダムにしても、国民生活の便宜のために有用である。つまり、人間のための施策である。

 その一方において、民主党政権発足直後に示された八ツ場ダムの建設中止の方針が、なし崩し的に元に戻ってしまった。整備新幹線の延伸が認められたり、新名神高速道路の未着工区間の建設が再開されたり、その他新しい公共事業が民主党政権によって、どんどん進められている。「コンクリートから人へ」は意味のない言葉というだけでなく、言い出した民主党政権自身が、この言葉を否定するような実態を作り出している。「美しい言葉」に心を寄せた人たちが裏切られることもある。それこそが「美しい言葉」の宿命である。

 「地球にやさしい商品」が、消費者の心をつかむ。「環境に配慮した商品」というよりは、よほど美しい言葉であるが、なんとなく胡散臭い。「ふるさとは地球村」というのも同様。これは、長野冬季オリンピックが掲げたキャッチフレーズである。何を言おうとしているのか、意味不明。「だからどうした」と茶々を入れたくなる。それでも、このフレーズは、なんとなくかっこいい。それで実害はないのだが、こういう安易な言葉遣いは、日本語を愛するものとしては、歓迎できない。

 こういった文脈の中でいうところの「美しい言葉」として気になる例は、まだまだある。「道州制」、「大阪都構想」、「郵政民営化」、「地域主権」、「規制緩和」といった言葉は、「なんとなく、かっこいい」、「なんとなく、良さそうだ」と受け止められる点で、「美しい言葉」と呼びたい。日本語としては全然美しくないが、「自民党をぶっ壊す」という小泉純一郎前首相の言葉は、小気味いいし、かっこいいから、国民の間で大いに受けた。中身を理解しての共感ならいいのだが、言葉の美しさだけに酔ってしまっての共感は、何をもたらすか。じっくり考えてみる必要がある。

 2月号で「言葉の軽さについて」書いた。これは言葉を発する人たちへの戒めである。今回の「美しい言葉」というのは、私の造語であって、この言葉が世の中に出回っているわけではない。この言葉を聞く側が心すべきこととして書いた。

 言語学というより、政治学の分野に入り込んでしまった。その分だけ、わかりにくい論考になってしまった。それでも、私とすれば、「誠心誠意」書いたつもりである。ああ、これも「美しい言葉」と指摘されそう。


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