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月刊年金時代2012年5月号
新・言語学序説から 第100

「百について」

 連載百回目である。百にちなんだ話題でも書いてみたい。

 宮城県知事時代、九月の敬老の日に、県内で百歳を迎えた方の自宅を訪問して、お祝いの品物を届けるのが知事の役目であった。ご自宅に上がりこんで、ご本人を目にしたときには「山田太郎さんは、どちらでしょうか」と声を掛ける。「私です」と答えるのを引き取って、「あれあれ、百歳とうかがっていたのですが、とてもそうは見えません。お若いですね」と応じる。実際、びっくりするほどお若いし、頭も身体もしっかりしている。まさに、「百歳万歳」といいたくなる。八十八歳の米寿も、九十歳の卒寿もめでたいが、百歳は格別である。一世紀百年生き抜いてきたという重みがある。

 「きんも百歳、ぎんも百歳」でお茶の間の人気を集めた成田きんさん、蟹江ぎんさんの双子姉妹は、それぞれ107歳、108歳の長寿をまっとうした。その蟹江ぎんさんの97歳、93歳、90歳、88歳の四姉妹が、政治や時事問題について言い交わしている場面をテレビで見て感心した。この調子だと、四人とも百歳を超えることまちがいない。姉妹四人とも百歳超えになったらすごいことである。

 「雀百まで踊り忘れず」、「三つ子の魂百までも」で使われている「百」は百歳のことである。このことわざが作られた当時は、百歳の長寿者はごく稀だった。だから、「百歳」というのは、ほんものの百歳というよりは、「どんなに高齢になっても」という意味で象徴的に使われている。百歳以上の人は、今や全国で47、756人(2011年9月現在)もいるのだから、上記のことわざは、文字通り受け止めていい。

 「おまえ百まで、わしゃ九十九まで」。なんで一歳差をつけるのだろう。夫婦二人とも百まで一緒に暮らそうねとならないのが面白い。それにしても、百歳というのが昔から一つの目標であったことがわかる。

 「悪妻は百年の不作」。一般には、こういうことなのである。恐ろしい。私の場合は、幸いにしてあてはまらないので、特にコメントしない。

 「百年一日の如く」。進歩がないことの表現であるので、悪い意味で使われる。どうだろうか。毎日、毎日、変わらず、たゆまず生き続けることは、賞賛されてもいいのだから、これをほめ言葉に使うことがあっていいのではないか。

 その他、百を使った表現について、以下にあげてみる。

 「百発百中」。十発十中ぐらいなら、凡人でもできそう。千発千中は絵空事。百というのは、現実性のある最高水準という気にさせる表現である。

 「お百度参り」。神仏に願いをかけて、百回お参りすること。「数多く」ということではなくて、百回というところに意味がある。お百度参りは、一日に百回お参りをするもので、「お百度詣」は百日間願掛けのお参りをすること。仙台二高の同級生の松岡邦明君が、私の病気の平癒の願いをかけて、自宅から車で40分もかかる定義如来(西芳寺)にお百度詣をしてくれた。百日かけて、実際に百回のお参りをするのだから、生半可ではできない。おかげで、私の病気は平癒した。ありがたくて、ありがたくて、涙が出るほどである。「百回」ということの重みを受け止めさせてもらった。

 「百戦錬磨」、「百家争鳴」、「百害あって一利なし」、「百獣の王」、これらは、「数多い」ということだが、百の代わりに十でも千でもしっくりこない。百というのが丁度いいというのが、私の言語感覚、数字感覚なのだが、一般的な見方かどうかはわからない。「百獣の王ライオン」というのは、現実には、獣の種類は百を超えるので、遠慮した表現である。

 デパートのことを「百貨店」という言い方は、今でも通用するが、デパートができたばかりの当時は売られる品物の種類としては「百貨」程度だったからよかった。今では、「千貨」、「万貨」となっているが、呼び方まで改める動きはないようである。「百科事典」も、今となっては、遠慮した言い方になった。「万科事典」ぐらいの情報量はあるのだから、「万物ものわかり事典」ぐらいに改名してはどうか。

 「百人一首」。この百人は「数が多い」ではなくて、実際に百人分の名歌が選ばれている。子どものころ、意地になって百首覚えたものだが、今はすっかり忘れた。これも百首だからなんとか覚えられるが、千首は無理。十首ではもの足らない。やはり、百人というのが絶妙な数字なのである。

 「百面相」。コメディアンのコロッケは、大好きなものまね名人である。しゃべり方や歌だけでなく、見た目もまねをする芸は、それこそ、他の人がまねできない。コロッケの場合は、丁度百ぐらいのネタだろうか。千は無理。今度、本人に訊いてみたい。

 「百年河清を待つ」。どれだけ長い間待っても、願いは空しく叶わないこと。中国の黄河の水の黄色い濁りは、何年経ってもなくならないことが語源である。今なら、原発事故で放出された放射能は、十万年経ってもなくならないものもある。百年では、どうにもならない。時代の流れとともに、いろいろ新しい事象は出てくるものであるが、言葉のほうはそれに追いつかない。

 「百薬の長」。お酒のこと。ノンベエには、まことに都合のいい表現である。これも「適度に摂取すれば」という条件がついていることを忘れてはならない。同時に「くすりはリスク」ということも思い浮かべよう。

 「百花繚乱」。美しい表現である。文字づらもいい。ここはどうしても「百花」でなければならない。「千花繚乱」では、めまいがしてくるし、「錯乱」となりかねない。「十花」では寂しくて、「繚乱」とはいかない。

 「百鬼夜行」。鬼が百人も大挙して行動することがあるのだろうか。赤鬼、青鬼など、数種類ということではないらしい。百の鬼が夜にうごめくようなところは、相当に怖い。

 記念すべき百回目なのに、百点満点にはほど遠い出来の原稿である。「もっとまじめにやれ」の声が聞こえる。そんなことは百も承知。これでお許しいただきたい。


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