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月刊年金時代2003年3月号
新・言語学序説から 第9回

「ぼけについて」

 「ぼけについて」と書き出したが、まずは、「ぼけ」という言葉を簡単に使っていいのか。「痴呆」のほうが感じがよさそうだが、読み言葉ではそうでもない。漢字の一文字、一文字をじっと見て欲しい。「痴」である。「呆」である。こちらのほうが、よほど印象がきつい。

 ぼけは、脳の働きの鈍くなった状態である。先天性ではなく、多くは、高齢化とともに出てくる。もちろん、若年性の痴呆症というのもあるが、「オヤジも最近ぼけてきて・・・」というように、年を取るということと並行して語られる。

 年を取ってくれば、目はかすむ、耳は遠くなる、そしてぼけてくる。こういったものは、ふつうは退行現象として受け止められる。

  それを「老人力」と表現した人がいた。いい発想である。「最近、もの忘れするようになってね」と言う友人に対して、「おお、お前もやっと老人力がついてきたな」というように使う。つまり、一種の洒落っ気での言い方である。語源から独立して、「老人パワー」と同義語に使われることもあるが、言い出した人たちの本意ではなかっただろう。

  「老人力」という表現の中に、老人特有の退行現象を、一つの能力だととらえたいという思いが隠されている。耳が遠くなるということは、いやなことを耳に入れない能力ととらえる。目がかすむのは、いやなものは見ないですませる能力。ぼけは、いやなことを忘れる能力ということになるのだろうか。

  昨年十一月に、五十二歳で急逝した外山義さん。高齢者の住環境にこだわった建築家であり、宮城県では、平成八年八月に全国に先駆けてオープンした痴呆症高齢者のグループホーム「こもれびの家」の設計を監修していただいた。最近では、特別養護老人ホームの新しい形である、全室個室型のユニットケアの設計に先鞭をつけた人として、福祉の世界の有名人であった。

  その外山さんが言ったとされるエピソードが忘れられない。今はだいぶ少なくなったが、老人ホームの中には、入所している老人の人間としての尊厳などに全く無関心のところがある。衆人看視の中で、オムツの交換をされる。正常な神経を持った人なら、とても耐えられない屈辱である。老人たちは、そういう処遇に対して何も言えないのですかという質問に、外山さんは「ぼけるしかないのです」と答えたという。

  こういう時の対抗手段として、ぼけてしまうというのがあるとしたら、何と悲しいことだろう。ぼけてしまうことを一つの能力と言ってしまうことには抵抗があるが、それしか残されていないとしたら、やはり「ぼけるしかない」のであろうか。

  五十五歳の私から見れば、高齢になっても、ぼけることなく知的に元気な方を見ると、真底うらやましい。中学・高校と通った堀見英学塾の堀見宗男先生は、八十歳を超えても塾で教えていらした。七、八年前、先生のご自宅に伺う機会があった。先生は、九十五歳ごろだったはず。いろいろ昔話などをしたあとに、「ところで浅野君なあ、どうも最近もの忘れするようになってなあ」と言われたので驚いてしまった。九十五歳の方が、もの忘れするのが「最近」なのである。確かに、お話しぶりはしっかりされていたし、ちっともぼけていない。いつまでもその調子でお元気でと願っていたが、残念ながら百歳を前にしてお亡くなりになった。私にとって、一つの理想的生き方である。

  どうやったらぼけを免れることができるか。知的好奇心を持ち続けて、身体も適当に動かして・・・といったことが言われる。楽器を弾いて指を動かす、マージャンなどもぼけ防止になると言われるが、本当なのだろうか。現役のピアニストにぼける人はいないのだろうか。レーガン元米国大統領は、あれだけ知的好奇心を持ち続けていても、アルツハイマー病(実は、この病気の名前が思い出せなかった。インターネットで「レーガン大統領」を検索して、やっと分かった。ついでに、レーガン元大統領は九十歳になったこともわかった)でぼけてしまっている。これは、どう考えたらいいのか。

  つまり、どんなに努力しても、ぼける時はぼける。だからこそ、介護保険が制度として成り立つ。「保険」であるから、ぼけたり、動けなくなったりで介護を要する状態になる可能性を、誰しもが持っているからこそ成り立つ制度である。

  とは言うものの、ある程度ぼけは防げるというのも事実である。講演でよく使う冗談話。女性の場合、一日のうちで一回も鏡を見ないようになったら、ぼけの始まりだから注意しなくてはならない。鏡を見ないということは、外出しない、人の目を意識しないということだから。もっとぼけが進んでしまうと、一日中鏡を見ている。こうなったら、手遅れ。男性の場合、小用を済ませたあと、ズボンのチャックを上げるのを忘れたらぼけの始まり、小用の前にチャックを下げるのを忘れたら、手遅れ。

 耳が遠くなったら、自分でわかる。目が見えにくくなるのも自覚できる。足腰が弱るのも同じ。しかし、ぼけた時に、自分でわかるか。外から、「あなたはぼけている」と言われたら、「俺はぼけていない、ぜったいにぼけていない」と答えるのではないか。「ひょっとして、俺はぼけているかもしれない」と言っている時期は、まだ初期の状態。もっと進んだらそうはいかない。

  だとすれば、ぼけた人に、そのことを指摘して、その人に自覚してもらうのはとてもむずかしいということになる。特に、その人が社会的に地位が高い場合はむずかしい。自動車免許証の書き換えのように、試験をして、それに不合格になるようなら要職から降りてもらうといった制度化をしないといけないかもしれない。さもなければ、本人にとっても、組織にとっても、極めて由々しい事態になるのではないか。

  この原稿を書いていてもそうだったのだが、モノの名前、人の名前などが思い出せないことが多くなった。まず、その試験を受けるべきはお前だよと言われそうな気がする。


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