浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

月刊年金時代2003年1月号
新・言語学序説から 第7回

「書くことについて」

 「原稿の締め切りは、きっちり守る」ということを信条にしてきた私であるが、この原稿は切羽詰まって、新幹線の中で書いている。そもそも、いかなる原稿でも、土日以外は書かないことにしてきた。別な言い方をすれば、昼間しか書かないということ。一日の仕事を終えて、酒を飲んで、その後に原稿を書く生活などとてもしたくはない。その程度の原稿書きである。

 ということは、別にそれほど好き好んで原稿を書いているわけではないことになる。だとすれば浅野さん、あなたにとって、原稿を書くことは義務なのか、仕事そのものなのかと問われれば、答は当然ノーである。ということで、今回は書くことの意義について書いてみたい。

 書くということの対岸には、読むということがあるのだから、結局は読ませるために書いていることになるのだろうか。しかし、読ませることを想定していない秘密の日記というものもある。この辺が、書くこととしゃべることの違いだろう。

 相手がなくてしゃべる人はまずいない。そういう人の姿を見たら、ちょっと気持ちが悪いと感じるはず。読ませる気がなくて書く人、これはたくさんいる。聴かせる気がなくて歌う人がたくさんいるのと同じことなのかもしれない。

 書くことは、歌うことと似ている。誰に聴かせる、読ませるでなく、書きたいから書く、歌いたいから歌う。うまい下手は関係ない。書いた時点で、歌っている瞬間で、完結している行為。

 毎朝ジョギングしている私にとって、書くことは走ることに似ている。つまりは、習慣ということ。ジョギングだって、結構つらいのである。朝はふとんの中で寝ているほうが楽だし、寒い時はなおさらである。レースともなれば、苦しいことの連続である。去年の十一月にほぼ十年ぶりにフルマラソンを走ったが、ゴールしたあとは、もうこんなもの二度と走りたくないと思ったものである。しかし、いつのまにか、また走ってしまう。これは、習慣というしかないのかもしれない。

 原稿書きは、長い間の習慣になってしまっている。定期的に書き出したのは、昭和五十三年に在米日本大使館に赴任した時。「市政」という月刊誌に「ワシントン便り」を連載して三十六回、三年間原稿を送り続けた。それ以来、今日まで、とぎれることなく、何かかにかには原稿を書き続けてきた。

 流行作家並みに書いていたこともある。毎週の「福祉新聞」、毎月の「現代社会保険」、「みやぎ県政だより」、そのほかに月数本の単発原稿。月間十本ぐらいを二年ほど続けたのではなかったか。知事になってからのことであるから、時間的制約はあったはずだが、それほどきついとも思わず書いていた(ような気がする)。

 ということで、ジョギングと同様に、私にとっての原稿書きは、「習慣」というのが一番近い表現かもしれない。ジョギングは走っている間が楽しいのだが、原稿書きではそういう快感を味わったことはない。どちらかと言えば苦痛である。苦痛に近い所業であるのに書くということは、それによって得られる何かがあるから。

 その「何か」とは、原稿料以外には、自己顕示欲、思いを伝えたいということ、表現欲・・・。いずれも、同じことのようだが、単なる習慣というだけでは片付けられない思いがある。

  一年半ほど前から、毎週火曜日発信のメールマガジンを書いている。題材は、心に浮かぶよしなしごとというよりは、もう少し真面目なことである。国政に関しての意見を中心にしているので、内容については結構気を遣う。発信相手は数百人規模。これ以上はなかなか増えない。これは、ちゃんと相手に自分の考えを伝えようという意志をもって書いている。

 それから、私個人で開設しているホームページで、日記を書いている。公開日記ということになるが、これはホームページを読んでもらうための呼び水、客寄せのようなもの。以前にも書いたが、月に二、三回しか更新しないようなホームページなんて誰も読まないぜというメールに発奮して、毎日更新を目指した結果としての公開日記である。

 ホームページなので、一体どんな人が読んでいるのかわからずに掲載している。それでも、感想を寄せられたり、三日も休むと「どうして休むんですか、毎日読まないと調子が狂うんです」と言われたり、定期的な読者がかなりいらっしゃることを知らされている。だから、なんとなく、休むに休めないことになってしまうのだが・・・。

 ここまで書いてきて、書くことの意義を自分なりに改めて認識した。結局は、自分の考えを言語化してまとめておくための作業なのである。今の職分から言えば、知事として毎日の仕事をしていく上で、立ち止まって考えることは必要であるし、書くことによって、思想がまとまる。もっと言えば、その時その時考えていることは、それ自体生きていることそのものであり、それを記録に残すことによって、生きている痕跡を残していることにつながる。

 足腰が立たなくなるまで、趣味としてのジョギングをやめることはないであろう。何ヶ月も走らなかったら、ものすごい喪失感に襲われるだろう。書くことも同じ。この連載が終了することになったら、一瞬はほっとするだろうが、しばらくしたら、生活のペースが狂ったような気になるはず。それが、私にとっての書くという作業であるような気がする。

 この連載を書くにあたって、最も苦労する部分は、題材探しである。それさえみつければ、あとは結構スイスイ。切羽詰まったのは、新幹線での入力だけではない。今回の題材そのものが切羽詰まった所産である。


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