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月刊年金時代2002年11月号
新・言語学序説から 第5回

「ほめ言葉について」

 学校、それも小学校の先生がやるべきことの第一は、生徒をほめることだと思う。どんな子どもにも、すぐれている部分はある。個性と呼ばれるものは持っている。それを見つけ出して、口に出してほめてあげる。生徒はどんなにうれしいことか、どんなに張り切ることか。

 前に、どこかで書いた、ある死刑囚のエピソード。貧しい家庭に生まれ、いじめられて育ったQさんにとって、学校時代も何もいいことがなかった。そんな彼が、授業で自分が作った短歌を先生からほめられたという。その、たった一回のほめられた経験をQさんは、忘れることができなかった。死刑囚となって、獄中に身を置くことになって、改めてそのことを思い出した。娑婆にいたときの、数少ないいい思い出である。

 獄中で、短歌を作るようになった。それが、専門家にも認められ、ついには、歌集を出すまでになった。それがまた絶賛を受けた。常に冷たかった世の中が、Qさんに初めて見せた温かさである。それを実感しながら、彼は処刑されていった。

 学校時代の一回だけでなく、そのあともQさんがほめられることが続いたならば、死刑囚になるほどの人生は歩まなかったかもしれない。それにしても、たった一回のほめられた経験があって、彼は短歌に行き着くことができたのである。

 ほめられれば、誰だってうれしいし、自信につながる。子どもの場合、その先の可能性は、無限に広がっているので、自信がほんものに変わっていくことは大いにある。大人になってしまうと、ほめられた場合の感激度も薄くなるし、なによりも子どもに比べて先行きの可能性が限定されている。だからこそ、子どものうちに、ほめなければならないのである。

 学校の先生にほめられるということは、他の子どもと比較してのことであるから、持つ意味は大きい。しかも、クラスのみんなの前でほめられれば、ものすごい自信になる。

  お勉強の成績がいい子とか、運動面でめざましい活躍をしている子のことは、ほめなくてもいい。自他ともに、そのことは認められているのだから。それ以外の分野は、先生が見つけてやらないといけない。絵がうまい、歌が上手といった目立つことだけでなく、心根がやさしい、面倒見がいい、お手伝いをよくする、掃除が真面目、ユーモアがあるなどなど、ほめるところは、いろいろあるではないか。こういうのを、個性という。一人ひとりがスペシャルな、かけがえのない存在なんだよということを気付かせてやること、これも先生の大事な仕事であろう。

  学校の先生だけでない。親だって、自分の子どもをどんどんほめなければならない。あれができない、これもできないと、子どもの悪いところだけ指摘してばかりいる親は、子どもにとっては最悪である。ほめることに消費税はかからないのだから、子どもはどんどんほめたほうがいい。ほめられれば、子どもは簡単に暗示にかかってしまう。あまりに突拍子もないほめかただと、「舞い上がってしまう」という状態になってしまうが、そうでない限りは、子どもはいい意味で「その気になって」、どんどんいいところを伸ばしていくことになる。親は、絶対に、ほめ上手になるべきである。

  子どもの場合は、ほめることは、ほぼ必ずいい結果をもたらすのだが、大人の場合はそうはいかない。これは、ほめるほうが悪いことが多い。つまりは、お世辞、ごますりの類が紛れ込むから、ほめられるほうとしても心しなければならないということである。

  初心者ゴルフの際に見られる現象は、お世辞、ごますりではなくて、意図的なほめ方である。近くの誰かにゴルフの手ほどきを受けた時、相当ほめられなかっただろうか。「初めてにしては、いいスイングしているね、スジがいいね、すぐにうまくなるよ」とか。

  どうも、ゴルフをやる人の心理として、少しでも仲間を増やそうということがあるらしい。だから、初心者が自分の下手なゴルフに嫌気をさして、やめてしまわないように、あの手この手でほめあげて、「その気」にさせてしまおうとする。

  カラオケの場でのほめ方は、ほとんどお世辞、ごますりの類。そこまで言わなくとも、カラオケで相方をほめるのは、一種の礼儀でもある。「なかなかいいですね、渋い声、相当授業料払ってますね」。ほとんどは心にもないほめ方、もしくは、五割増しに膨らませた評価をするものである。だから、ほめられても、決して真に受けてはならない。ただし、そのことに気が付くのには、それこそ授業料を相当払わないといけないから厄介なのである。

  このところ何年か、正月の御用始めに、商工会議所のみなさんとの顔合わせ会での御挨拶で、決まって申し上げていることがある。「お互いにほめあいましょう」ということである。景気が悪い中だからこそ、「あれもだめだ、これもだめだ」という話は、正月からするべきではない。髪の毛が薄くなった人に対しても、そのまま言ってはいけない。「まだこれだけ髪の毛が残っているじゃないか」と言うべきだ。なんにも取り柄のない人というのはいない。是非、いいところを見つけて、そのことをほめあげるべきである。そんなことを話している。

  人をほめることは、むずかしい。お世辞でもなく、ごますりにも聞こえないように、的確にほめることは、ひとつの才能とも言える。悪口のほうがずっと簡単。そちらのほうの才能を持っている人のほうが多い。上司を酒の肴にして飲んでいても、ほめる話は二、三分でタネが尽きてしまうが、悪口となると、何時間だって続く。そして、悪口を肴にしたほうが、酒も進む。

  悪口文化ではなく、ほめ合う文化を確立したい。ほめれば、人間が育つだけでなく、組織が活性化する、地域が生き生きとする、そして、国家だって自信を持って進むことができる。いいことだらけではないか。ほめ上手な人をほめたい。これが、今の私の願いである。


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