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月刊年金時代2002年9月号
新・言語学序説から 第3回

「文字について」

 自慢じゃないが、自分の字と顔について、「きれい」とほめられたことがない。そうは言いつつも、商売柄、人の前に顔をさらすことが多い。肉筆が求められる機会も多いので、逃げ回ってばかりはいられない。ここは開き直るしかないのである。

 先日、「在宅ホスピスケア・ネットワーク」の会合があった。回復の見込みがなくなった、がんなどの患者さんを自宅に引き取って、そこでホスピスと同じようなケアを続けようという試みが、宮城県内で広がりつつある。そのネットワークが発足して2年目の会合である。

 その会合で、実際に自宅で終末を看取ったというご家族が、体験談を語る場面があった。その一人Sさん。お母さんが脳腫瘍で手遅れとなり、自宅で47日間世話をした結果亡くなった。会合には、Sさんの中学一年生(当時)の娘さんも、一緒に出ていた。自分のおばあさんだから、最後まで世話をしたいということで、学校をその間休み、お母さんとともに看護にあたったとのこと。そのけなげさに、思わずほろり。

 亡くなったその方から、私はお手紙をもらっていた。自宅に戻る前、県立がんセンターに入院中のこと。トイレの汚れを嘆く内容のものだった。それに対して、私も返事を出したが、担当課長からも別途回答を差し上げた。もちろん、汚いトイレは解消したのである。

 「母は、とても喜んでいました。そして、いただいたお手紙はとても大事にしていたので、亡くなったときには、お棺の中に入れてやりました」とSさんからの報告があった。これだから、たとえ悪筆でも、自筆の手紙はやめるわけにいかないのである。

 お手紙は、「知事さんあのね、知事への手紙」でいただいたもの。平成6年度から始まったもので、4月号と10月号の「県政だより」に用紙が綴じ込んである。切手不要で、送っていただいた手紙はすべて私が読む。最初の3年ほどは、7割ぐらいに一枚一枚はがきで私が返事を書いていた。年間1,500通もいただくので、さすがにしんどくなり、このところは、自筆の文面をそのまま(まるでオリジナルそのものの如く)印刷したものに、宛名のところだけ自筆を加えて返信する方式に変えている。

   字がまずいことの効用は、実はある。私の書いた手紙は、決して代筆とは思われない。だって、どうせ代筆させるなら、もっとうまい人にさせるはずということになるから。そんな手紙が、Sさんのお母さんの最期の場面に間に合った。

 やはり手紙はワープロよりは、肉筆が印象に残る。字はまずいが、結構私は筆まめのほうである。書いているところを妻に見られると、彼女からはもっとゆっくりていねいに書きなさいとたしなめられる。私の場合、ゆっくり書いても速く書いても、出来は変わらない。それもあって、ブワーッと結構なスピードで書き殴る感じになる。

 それにしても、字の上手な人は、得である。人柄まで良さそうに思える。改めて尊敬したくなる。幸い、私の女性秘書は、5代にわたって全員とても字がうまい。初代のIさんなどは、書道の大家である。芸は身を助くというが、私も一緒に助けられている。

 仕事の上での私の先輩で、まことに男っぽく、豪快で太っ腹、という人がいる。その人の書く字が、とても繊細でていねいなものということを知ったのは、大分あとのことであった。改めて、彼への尊敬の念を深めたものである。

 逆も、ある。才色兼備の素敵な女性。いただいたおはがきの文字が、外見に似つかわしくない。げっそりとまではいかないが、ちょっと驚いた。念のため、「女性」は複数形である。

 自分だけの経験かもしれないが、小学校から大学まで、教えを受けた先生を振り返ってみると、小学校の先生が最も字が上手であった。上級に進むにつれ、先生の筆は落ちていく。大学の先生の字たるや、びっくりするほどのまずさという例が多かった。なんとしたことだろう。

 同じ文脈ではないのだが、知的レベルがものすごく高い人の中に、書くほうの字はすこぶるが付くぐらいまずい人がいる。私としては、安心をしたくもなるのだが、当然ながら、逆は真ではない。つまり、字がまずい人は頭がいい、ということにはならないのである。

 これまた仕事の先輩のMさん。頭はすこぶるいいのだが、字はすこぶるまずい。私が若かりし頃、彼の書いたものを、この私に「清書」させるというのだから、その程度がわかると思う。その彼のエピソード。団地住まいで、回覧版が回ってくる。彼のところでは、お子さんが小学校に上がる頃。Mさんが回覧版に名前を書いて、次の家に持っていったら、そこで言われた。「息子さん、ずいぶん字がお上手になったんですね」

 私にとって、困るのは、毛筆で書く場面。本県に行幸啓いただいた御礼に、皇居にごあいさつに赴く。入り口で署名を求められる。毛筆で、である。最初の機会は、予期していなかったこともあり、冷や汗一杯でともかく署名をした。隣で、宮内庁の係の方が、じっと私の手元を見ている。お習字の稽古をもっと積んでおくべきだったと後悔するが、いまさら追いつかない。

 であるからして、色紙を書くのは勘弁してもらいたいのである。ところが、勘弁してくれない。逃げ切れないことがある。泣く泣く書く。もちろん、毛筆は使わず、サインペンのたぐいである。こうやって書いた色紙が、どこかの家に飾られているかと思うと、本当にぞっとする。「息子や、こんな下手な字を書いていても、知事ぐらいまではなれるのだから、自信を持っていいんだよ」とか解説されているのだろうか。

 ところで、この原稿はパソコン入力で書いている。長いこと、原稿は万年筆でフルスピードで書き上げるのが、私のスタイルだった。このところ10年ぐらいは、万年筆での原稿書きから遠ざかっている。これでは、筆が上達する機会を逃すことになるのだが、しょうがない。


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