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月刊年金と住宅2002年3月号
新・言語学序説から 第15回

「選挙について」

 厚生省の課長ポストを辞して、突然、ふるさとの宮城県知事選挙に出馬したのが、8年前、平成5年の11月のことだった。「突然」というのは、当時の知事が「ゼネコン汚職」で逮捕されたあとの出直し選挙だったから。厚生省に辞表を出したのが、告示3日前の11月1日だったから、突然と言えばこれほど突然のこともない。

 その「突然」の選挙突入だったにもかかわらず、当選することができた。知事の任期は4年だから、4年ごとにこの世界で「免許書換え」と呼ばれる選挙が巡って来る。最初の「免許書換え」が平成9年。相手は自民党・新進党連合の参議院議員で、強力な候補であった。この時の選挙でお目見えしたのが、百円カンパ、勝手連、青い旗作戦であった。


 「百円カンパ」は、大口寄付ではなくて、百円玉一個ずつを広く浅く集めることによって、「選挙への百円分の参加」を促すというコンセプトと方法論だった。これが見事に成功。結局千六百万円以上集めて、選挙費用を十分に賄うことができた。

 「勝手連」は、横路孝弘さんが初当選した昭和58年の北海道知事選挙で初めてお目見えした。我々がパイオニアではない。しかし、言葉の本当の意味で「勝手に」応援していただいて、しかも結果オーライというのは、この時の我々の選挙が初めてではなかったか。「勝手に」結成され、勝手に活動していたので、選挙の後も、どれだけの数、どんな勝手連が存在していたのか、私達にも全容はわからずじまいであった。

 「青い旗作戦」は、ハプニング的に始まった。県北沿岸部の牡鹿町小淵浜出身の循環器の名医、目黒泰一郎君は仙台二高で私と同期生。彼のひらめきの産物である。私達の選挙カーを小淵浜で迎える時に、手作りの青い小旗を降ったら浅野が喜ぶのではないかと目黒君は考えたらしい。

 喜ぶどころではない。小淵浜に選挙カーが入っていった時、家にも道にも人が誰もいない。不安を覚えて角を曲がったとたんに、公民館の前で青い小旗を振る200人もの姿が私の目に飛び込んできた。その前で演説をしようとマイクを握ったが、感激の涙であとが続かなくなってしまった。「青い旗を振るのを見て、浅野が泣いた」という情報が選挙対策本部を経由して、あっという間に広がった。

  その前日あたりに、選挙カーからうぐいす嬢の丹野真衣さんが、「青い海のように広い心、青い空のように澄んだ心の浅野史郎」といったことをアドリブで叫んだのを聞いて、私がすかさず「それいいね」と言った。そのことを目黒君が聞き知っていたのかもしれない。以後、あちこちで浅野との連帯のシンボルとして、青い旗、青いハンカチが県内各地で揺れた。


 この時の選挙は、「無党派が大政党の連合軍に勝った」といった具合に報道され、私としても忘れられない経験だった。このあたりの経緯は、これも同じく高校同期の菊地昭典君の手による「浅野知事の冒険」(岩波同時代ライブラリー)に詳しい。ついでに、初めての選挙の経緯も菊地君が「アサノ課長が知事になれた理由」で書いている。

 三選を目指した今回の選挙は、11月1日告示、18日投票であった。今回も、百円カンパ、勝手連、青い旗作戦は健在。それに加えて、車座集会、手づくりポスター、夫唱婦随が今回の特色であった。

 「車座集会」は、リクエストに応じ、候補者が民家や集会所に出向いて、車座になって話をするというもの。候補者がお願いの演説をし、議員や首長が候補者をほめたたえる、そういった個人演説会方式の対極に位置付けている。車座になって候補者を囲む住民の方々から、生の声を聞き、それに候補者が答えるという対話方式の集会である。

 予想以上にこれがうまくいった。一ヶ所あたり20分ぐらいなので、双方に不完全燃焼の感は残るが、それでも生の声を聞けるのは、候補者には貴重な機会である。「口はひとつ、耳はふたつ」と言いながら、なるべく多くの本音の話を聞くことに努めた。結局、17日間で140ヶ所以上の車座集会に出席することができた。

 「手づくりポスター」は、私の発案。文字通り、県民に私の選挙ポスターを作ってもらうというもの。A型はスペースに絵を書いてもらう、B型はメッセージを書いてもらう形である。ポスターとして最低限の情報である、候補者の名前と写真は既に印刷されているが、「残りのスペースはあなたの手で」ということである。

 A型、B型合わせて、最終的には千枚を超えた。県内のポスター掲示板が約6800ヶ所だから、一割の目標をクリヤした。選挙カーで県内を回っていて、掲示板の手づくりポスターに気が付くたびに、スタッフは歓声を上げた。視覚障害の妻が点字で書き、弱視の夫が文字に直し、それに友人の知的障害のある女性が絵をつけるという力作もあった。

 「夫唱婦随」というのは、私の妻光子が17日間の全日程を私と行動を共にしたということである。車座集会もすべて同席、発言の記録を取り、集会終盤に御礼のあいさつをし、参加者と握手をする、こういったことを妻がしっかり務めた。街頭での演説でも同様の活躍。「今日は、私のほんものの妻、光子52歳を連れてきました」と私が紹介すると、それなりに受ける。私より、妻のほうが人気があったようだ。


 こういった新しい試みも含め、手応え十分の選挙であった。自分なりにコンセプトを固め、戦術を編み出し、基本的なところは言語化し、組織を作って選挙に突入する。選挙期間に入ってしまえば、あとは言語による戦争、パフォーマンスも重要な役割を果す。選挙の醍醐味である。それがうまい具合に回って、勝利という結果をもたらせば言うことなし。そういった「言うことなし」の選挙が3回も続いてしまった。

 「言語化」は、今回はあまり多くない。「まっすぐに、アサノらしく」というのがポスターにつけたフレーズ。「現職らしくなく、しかし浅野らしく」というのも結構使った。「小さな選対、大きな人の輪」は前回選挙からの引継ぎ。標語というより、実態そのものである。このフレーズがあると、ほんとにちっぽけな素人ばかりの選対が気にならなくなる。

 「言語学序説」のタイトルを思い出して、最後のほうであわてて「言語化」なんていうことを書いたと思われるかもしれない。それだけではない。選挙において、言語の持つ力がとても大きいということを言いたかった。言語は相手に切り込む、自分を奮い立たせる、有権者の魂に飛び込む。実践と実績なき言語では空しいし、アピールもしない。まさに、言語感覚、言語能力が試される場が選挙だという感じもする。

 そんな強弁もして、この稿を終わりたい。


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