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月刊年金と住宅2001年12月号
新・言語学序説から 第13回

「歌謡曲の歌詞について」

 エルヴィス・プレスリーの大ファンで通っている私だが、実は、歌謡曲だって好きなのである。三橋美智也、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、北島三郎、加山雄三、美川憲一、森進一、五木ひろし、この辺の歌なら三番まで歌詞を覚えている曲が数曲づつはある。

 最近は、画面付きカラオケが全盛で、歌に合わせて歌詞が出てくる。だから、歌詞を覚えようなんという気がそもそも起こらないようになっているが、昔はそうではなかった。だいたいにして、歌を人前で堂々と歌うなどという習慣は、よほど歌唱力に自信がある人は別として、わが日本人の中にはなかったものである。歌はひそかに自分の楽しみで歌うもの。そんな時に、歌詞カードも歌詞つき画面もあるはずがない。

 一人で歌うのに最も適した場所は、風呂場である。そんなところに歌詞カードは持ちこめない。寂しき独身時代、夜の帰宅時とか、それこそ風呂屋に通う道々で、一人で歌いながら歩いたものである。必要に迫られて、歌詞は覚えてしまった。

 そもそも、覚えたいと思えるような歌詞の歌があったのである。最近はそういう歌があまりない。それに、若い時は記憶力もよかったし、覚えようという根性もあった。そんな頃に覚えたものは、今も忘れていない。


 好きな作詞家は、西条八十、佐伯孝夫、岩谷時子、西沢爽など。比較的最近では、阿久悠、阿木耀子などが印象に残る。

 歌謡曲でいい歌詞かどうかのポイントは二つ。曲を聴いていて、情景なりストーリーが頭に浮かぶかどうか。駄作は、全くそんな情景が浮かばない。もう一つは、心に残るフレーズが一つでもあるかどうか。

 そういったフレーズとして、「泣いた女がバカなのか、だました男が悪いのか」がある。西田佐知子歌うところの「東京ブルース」の歌い出し部分である。仕事の中でこんなフレーズを使いたくなる場面がある。交渉ごとで、相手側にしてやられたかなという思いがよぎるとき、こちらが「女」で、相手が「男」。結構使い道のあるフレーズである。

 同じ「東京ブルース」の二番には、「どうせ私をだますなら、死ぬまでだまして欲しかった」という泣かせるセリフがある。三番の最後は、「女が鳴らす口笛は、恋の終わりの東京ブルース」という印象的なフレーズ。西田佐知子独特のノー・ビブラートのけだるい声を聴いていると、生々しい情景が浮かんで来る。一番から三番まで、ムダなフレーズ、月並みな言い回しのない素晴らしい歌詞だと思う。作詞は水木かおる。西田佐知子のもう一つの名作、「アカシヤの雨がやむとき」も水木かおるの作品である。

 全盛期の山口百恵が歌った「イミテイション・ゴールド」も印象深い。「声が違う、年が違う、夢が違う、ほくろが違う、ごめんね、去年の人と又比べている」、同じ箇所の二番では、「くせが違う、汗が違う、愛が違う、きき腕違う」と来る。作者に、相当な恋愛経験がないと書けない台詞ではないか。「横須賀ストーリー」の、「これっきり、これっきり、もうこれっきりですか」というのも、曲全体の感じを予見させる秀逸な歌い出しである。などなどあげればきりがない。いずれも、阿木耀子の作である。

  逆に、一見(一聞か)かっこよさそうだが、手厳しい評論家の私にかかると評価が低いのが、「昴」など、谷村新司のもの。「目を閉じて何も見えず」と歌い出すと、「そんなのあたりまえだ」と茶化したくなる。

  五輪真弓の「恋人よ」もひどい。メロディーがすごくいいので、歌詞の凡庸さがかすんでしまうのだが、「枯葉散る夕暮れは、来る日の寒さをもの語り、雨にこわれたベンチには、愛をささやく歌もない、恋人よ・・・・」これで一体どんなストーリーと雰囲気を伝えたいのか。さらに二番になると、「砂利道を駆け足で、マラソン人(びと)が行き過ぎる、まるで忘却望むよに、止まる私を誘っている、恋人よ・・・」と続く。「マラソン人」とはどういうことかと、マラソン人の私としても尋ねたくなる。


 「新・言語学序説」の筆者としては、日本語の乱れも気になってしまう。知ってる人は知っている有名な話なのだが、和田弘とマヒナスターズが松尾和子と歌って大ヒットした「お座敷小唄」の一番。「京都先斗町に降る雪も、雪に変わりはないじゃなし」のおかしさ。正しくは、「変わりはあるじゃなし」と歌うべきものである。「みちづれ」という歌。これは牧村三枝子の他何人かが歌っているが、「お前とみちづれに」という歌詞に、私の言語感覚は「おかしい」と反応してしまう。ここは、「お前をみちづれに」とあるべきである。作者は誰かと調べてみたら、なんと前出の水木かおる先生ではないか。となると、私の言語感覚のほうが違っているのだろうか。

 そんな私の感覚からすると、いまどきの若い子の歌は、とても論じる気にもなれない。わけのわからない英語もどきをまぶして、一体、その歌詞で何を伝えようとしているのかと聞きたくなるような、おかしなおかしな歌が氾濫している。こういう歌を一緒に歌っている青少年たちが長じて中年を迎えた時、こんな歌をなつかしく思い起こすことがあるのだろうか。とても想像がつかない。余計なお世話だろうが・・・。


 日本の歌謡曲の歌詞のちょっと不思議なところは、男性歌手が女の歌を歌うことだろう。森進一のデビュー曲は「女のためいき」だし、バーブ佐竹が歌ってヒットしたのが、「女心の唄」である。「女ですもの人並みに、夢をみたのがなぜ悪い」とあの顔で歌われても、あまり気持ち悪くはならない。というほどには男性歌手による女唄は、何十年も前から日本では定着していたんだなと、歌謡曲評論家の私は分析している。ぴんからトリオの百万枚ヒットで「おんなのみち」なんていうのもあったなあ。ひげのオッサンが「それが女のみちーなーらーばー」と絶叫しても許されるのが日本の歌謡曲文化である。

 ご当地ソングというのも、日本の歌謡曲の特色。アメリカでも、「ニューヨーク、ニューヨーク」、「マサチューセッツ」、「カリフォルニアの青い空」、「思い出のサンフランシスコ」、「カンサスシティ」、「メンフィス・テネシー」「ブルーハワイ」というのがあるが、日本ほどではない。

 「恋の町札幌」、「函館の女」、「ブルーライトよこはま」、「京都の夜」、「大阪ろまん」、「そして神戸」、「長崎は今日も雨だった」・・・。もちろん、東京については、歌えと言われれば何十曲もすぐに歌える。その一方で、わが仙台の名を冠した大ヒット曲はない。それなら、私が作ってやろうじゃないか。評論家が実践家に変わる夢を見ている。 「歌謡曲の歌詞について」


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