新・言語学序説から 第8回 「記者会見について」 毎週月曜日の十一時半から三〇分ほど、定例の記者会見がある。他県の知事からは、「えっ、毎週?」、「質問項目の事前提出もないの?」,「テレビ中継まであるの?」と驚かれる。月に一回しか記者会見をしない知事もあることを初めて知った。一ヶ月前の出来事をどうやって覚えているのだろうかと、私にはそっちのほうが驚異である。 質問項目を事前に出させたりしたら、「その件は今初めて聞いたので、即答はできかねます」と言えなくなってしまう。テレビ中継結構。どうせ公開の、何でもありの会見なのだから。これで、県庁職員が即座に知事の考えを知ることができる。 実のところ、私は記者会見なるものが好きなのである。記者と私との真剣勝負。ここでの対応で鍛えられるというところがある。ありがたいことである。ついでに言えば、各種の取材も決して嫌いではない。ある問題について、考えをまとめる契機となる。そういう意味でも、まことに貴重な機会である。しかも、そのあとニュースや記事になって多くの人の目に触れることになるので、労せずして広報をしてもらうという効用もある。
なんていうことを偉そうに言っているが、実は、私にとって忘れられない苦い思い出がある。あれは食糧費の不適正支出をめぐる疑惑で県庁の周りが沸き立っていた頃だから、平成七年の春ではないかと思う。財政課の食糧費を使っての会合が、実際には存在しないのではないか、又は、出席者数の水増しが行なわれており、裏金作りに利用されていたのではないかという疑惑があった。「会合のあったお店に出向いて、実際に調べたらどうですか」という質問がA社のS記者からあった。 その質問に、私はしばし絶句してしまったのである。「しばし」は自分では数分ぐらいに感じたが、実際は一五秒ほどのものであったらしい。S記者の質問に「はい、調査します」と答えたら、一体どういった調査結果になるか予測がついた。つまり、S記者が疑うごとく、不適正な事務処理がされていたことが明らかになるだろう。一方、「いいえ、調査しません」と答えたら、すぐさま「なぜしないのですか」と追いかけ質問がなされ、それには明確に答えることは不可能だろうとの思いもあった。はいもだめ、いいえもだめ。つまり、進退窮まったのである。 「しばし」の沈黙の間に、S記者が何か別の聞き方をしてくれたらなんとか対処のしようがあったような気がする。同じ質問を繰り返したとしても、少しは救いになる。しかし、S記者ははじめの質問をしたきり、黙って私を見つめるのみであった。それまでの記者会見では、質問があると、ほとんど間髪を入れずにスパッと答を返すというのが浅野流であったのだが、その時だけはどうにもならなかった。別の記者の観察では、「その時浅野知事は涙ぐんでいた」というのだが、そうかどうかは記憶にない。
これに関してのこぼれ話のようなもので、別のところでも書いたりしゃべったりしているが、役所用語のことがある。NHKの「週刊こどもニュース」の豆記者が取材に来たときのこと。同行のディレクターからは、しつこいほどに「この番組は小学校五年生ぐらいを対象に作っているのですから、彼らにわかるような言葉で話して下さい」と注意を受けていた。何度も注意を受けた後だったので、「不適正な事務処理」ではまた注意されるだろうなと思った。そこで私はその豆記者に「書類にうそ書いちゃったの」と説明に及んだ。「ふーん、うそ書いたの」と彼女には通じたようだった。
「週刊こどもニュース」の豆記者とのやりとりがあった後、県政記者クラブの大人の記者たちに言ったものである。豆記者の突っ込みのほうが、君たちよりよほど鋭い。「不適正な事務処理」なんて説明されてうなずいているようでは駄目なんじゃないか。そう説明した自分の言語感覚のほうは棚に上げて、からかってはみたが、「お役所言葉」の摩訶不思議さに自分自身驚いた一幕であった。 月曜日の定例記者会見のやりとりは、翌日の火曜日には宮城県のホームページ上に逐語的に再現されて掲載される。それを自分で読むことがあるのだけれども、赤面モノである。日本語としていかがかといった表現、冗長、あいまい、支離滅裂・・・こういったものが散見される。答に自信がないことほど、長々と説明を続ける傾向も見て取れる。 このホームページを開けてみて、宮城県知事の記者会見がどんなふうに行なわれているのに興味を持っていただくのは、大いに結構である。ただし、そこで使われている日本語が、いかに「新言語学序説」の雑文を書いている人らしくないということを発見しようとするとしたら、それは悪趣味というものということは言っておきたい。 |