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新・言語学序説から 第5回

「あいさつについて」

 前回は、講演やシンポジウムでの時間厳守について書いた。話をするときの、私自身の心がけの問題として書いたつもりである。もうひとつ心がけていることは、あいさつを真面目にしっかりやろうということである。「あいさつ」といっても、「こんにちは」「ごきげんいかが」のほうではない。行事、会合でのあいさつ、スピーチのたぐいのことである。

 現象的に言えば、あらかじめ原稿を作っておいて、または、作ってもらって、それを読み上げるという形のあいさつはやらないということ。  「時間厳守」と同じように、このことも厚生省の役人時代からのならいである。「昨日や今日の訓練じゃないぜ」といったところ。

 外国語の通訳や、手話通訳が入って、どうしてもあらかじめの原稿どおりあいさつせねばならない場面はある。また、厳粛で、形式が重んじられる種類の行事で、内容よりも型通り話すことに意義があるようなものは、原稿をしっかりと読ませてもらう。

 私が、「本日ここに・・・・・」といったあいさつはしないということは、宮城県内ではほとんどの人に知られていると思う。このことを逆手に使った、厭味で子供っぽい「事件」があった。ある会合に招待されていたが、「政治的」な背景もあり、出席を断りたいと思っていた。ところが、それもできずに、いやいや出席する羽目に陥った。そこで私がやったのが、やおら原稿を取り出して、その原稿を淡々と読み上げるということであった。

 そのこと自体は、何ら失礼でも異例でもないことであるが、私のふだんのあいさつの仕方を知る人にとっては、かなりの驚きであり、「なぜだろう」と思わせる行動であった。実は、「なぜだろう」と思わせることが、その時の私にとっては必要なことであったので、それはそれで目的は達したことになる。それにしても、子供っぽいやり方だったなあと、ちょっぴり反省はしている。


 あいさつで、もうひとつ心がけているのは、スピーチの間に一回でも聴衆を笑わせるということである。「受け狙い」とは少し違うつもりだが、そう取って苦々しく思う人、そこまでいかなくとも、苦笑している人はいるだろう。しかし、年間500回はあいさつをしている身からすると、そのぐらいのことがないと、やってられない気になることも確かである。

 基本的には、私はあいさつの機会を楽しんでいる。これを「義務」「苦痛」と考えるようになったら、知事業は務まらないかもしれない。ということは、知事就任後すぐの私の実感である。だったら楽しんでやろう、「権利」ととらえてやろうと思った。それも、私の生活の知恵である。

 それはともかく、せっかくのあいさつの機会には、笑いを取るだけでなく、印象に残る言葉を残したいという、切なる気持ちがあることも嘘ではない。そのためには、あらかじめの準備は、むしろないようにしている。会場に入ってからの直観勝負である。

 年間500回のあいさつでも、我ながら満足できるものもあるが、納得できないものも、当然ある。そんな、出来不出来のばらつきがあるからこそ、「挑戦」の契機が生まれる。私にとっては、それなりに、毎回が「真剣勝負」ではある。

 聴衆によるところが大きい。気合いが入る割りには気楽にやれて、結果的にはいい出来になるのは、他県からの参加者の多い会合である。地元の人達の前では、どうしてもやりにくさがあるのだが、遠来のお客様には、徹底的にサービスしたいという気になるからだろう。女性の参加者が多いところもやりやすい。特に、中年程度の女性。反応がよい、乗ってくれるのである。

 逆に、やりにくいのは、身内の県庁職員の前でのあいさつ。年末、年始には、職員に対して講堂で恒例のあいさつをさせられるのだが、結構これがプレッシャーである。私としたことが、あがってしまうほどである。どぎまぎしてしまうこともある。だから、最近は、この機会にはあらかじめ書いてきた原稿を読む。

 もうひとつ苦手なのは、学生の前でのあいさつ。年齢層が低くなるほどやりにくい。幼稚園の園児へのあいさつでは、一体どんな言葉を使ったらいいというのか。幼児ことばも使いにくいし、さりとて、むずかしい言葉もだめだ。そもそも、あまり熱心には聞いている状況にないこともあって、本当に困ってしまう。


 あいさつも、立派な文化だとつくづく思う。誰もかれもが、「本日ここに・・・・・」といったあいさつをするようでは、寒々しい。それを寒々しいと感じないことも、文化のありようを示すことになるという意味でも、あいさつは文化である。

 よく比較されるように、外国の政治家のスピーチは、極めて魅力的である。そういったスピーチをすることが、政治家としての条件であるとさえ言われる。それなら、日本の政治家も努力すべきであろう。自分の言葉を持ち、スピーチの技法も学ばなければならない。政治家としては、「本日ここに・・・・・」式のあいさつは絶対するまいといったこだわりがあってもよい。

 このことは、政治家だけにあてはまることではない。それぞれの組織のリーダーたる人にとっては、魅力的なあいさつをすることは一つの義務である。決して、上手なあいさつをすることではない。つっかえ、つっかえのたどたどしいあいさつは、決して皮肉ではなく、印象に残る。そのことが大事だという認識を、みんなで共有することが必要である。それが、文化の始まりである。

 考えてもみたらいい。年間500回の知事のあいさつを、県庁職員が一つひとつ起案し、組織の流れを通じて「ああでもない、こうでもない」の手直しを経て決済を終え、まるで読む気のしない(聴衆からすれば、まるで聴く気もしない)あいさつ原稿を作ることの壮大な無駄を。

 こんな駄文でも、自分で書くことに意義がある。そう信じて書いているのだから、読者もそこのところを心して読んでほしい。


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