月刊年金と住宅2001年9月号 「議会答弁について」 「新・言語学序説」なんていう連載をしている身としては、ふだんから美しい日本語を書きたい、納得のいく日本語を話したいと考えている。にもかかわらず、日本語としていかがかという言葉を連発してしまう場面がある。議会答弁がその一つである。 霞ヶ関で役人をしている当時は、国会答弁をする側というよりは、答弁書を書く側であった。国民年金の保険料滞納問題の答弁で、「保険料の掛け捨てを嫌う国民性」と書くべきところ、「掛け捨て防止を嫌う国民性」と書いてしまった。大失敗と言える。ところで、あの時の実際の答弁はどうだったんだろうか。あまりに昔のこととて忘れてしまった。 宮城県知事としては、県議会答弁をする立場である。県議会は年に四回。これまでの八年間で三十二回の議会に臨んだということになる。定数六十三人の宮城県議会の場合、一般質問というのが一日四人で十六人というのが慣例になっている。予算案が出されている議会では、これに加えて代表質問というのがあり、各会派ごとに一人づつの計六人が代表質問に立つ。 いずれも、本会議場という、国会の本会議場と同様のコンセプトで設計されているいかめしいところで展開される。質問者も、答弁者も一段高い壇に登壇して発言を行なう。一般質問は三十分間、代表質問は四十分間、質問者が一方的に演説し、それに対し、答弁者はこれまた一方的に答弁する。 答弁はもっぱら知事が行なう。ほかの県では、ほとんど部長が答弁して、基本的なことにだけ知事が答えているようだが、宮城県はそうではない。あくまでも、知事答弁である。今年の六月議会では、一般質問に二十一人が立ち、五日間続いた。初日は五人登場した。質問者二十一人はこの八年間での最高記録である。そういう時の答弁が大変だということではない。一番つらいのは、自分がしゃべっている答弁が、どう考えてもまともな日本語に聞こえないということである。
これに対して、本会議での一般質問への答弁は、ほとんどの場合、各部局があらかじめ作成した答弁書をそのとおりに読むことになる。自分の言葉で語れと言っても、質問のほうは三十分前になされてしまっているのだから、迫力も緊張感もだいぶ減殺される。そうそう、まるであたりまえのように書いてしまったが、質問内容はすべて数日前に各部局に届いている。それに対する答弁は逐一答弁書の形で整えられて私の手元に届いているのである。質問前日には、翌日の質問に対する「知事レク」と呼ばれる勉強会も設定される。 知事答弁が終わった後、質問者には再答弁、再々答弁が許されている。宮城県議会のもう一つの特徴は、これらが頻繁になされること。質問者の半分ぐらいがこの権利を行使する。これへの答弁は、ぶっつけ本番である。知事はこの場面で初めて自分の言葉で語ることになるのである。
「・・・であるとともに」という表現も私としては、あまり使いたくないものである。「今日は、私は頭痛がするとともに腹痛もする」なんて、ふつう言うだろうか。それから、まちがった丁寧表現も気になってしまう。「したがいまして」、「これによりまして」、「この問題につきましては」という表現などである。これらは、それぞれ、「したがって」、「よって」「ついては」というのが正しい日本語である。「ついて」は「つく」という動詞とは縁もゆかりもないのだから、「つく」の丁寧語的に「つきます」というふうに言い変えるのは、日本語的に全く正しくない。どんな貴人の前で「この問題については」と言っても、決して失礼な表現ではないのである。 それとは別に、議会答弁ならではの表現というのはある。「前向きに検討したい」とか、「この件については研究課題とさせていただきたい」といったものである。「だめです」、「できません」では、質問者のメンツもつぶれるし、余韻もない。そうならないための「生活の知恵」のようなものかもしれない。
議会言葉に慣れてしまうと、ついつい普段でも使ってしまう。家に帰ってきて、たまに、ほんのたまにであるが、妻と喧嘩というか言い合いになる、又は私が一方的に妻に糾弾されるという場面がある。「その件については、前向きに善処させてもらう」とか、「大変に遺憾に存じる次第であって、今後こういうことのないよう、十分配慮して対応していく」と妻に答えてしまう。「そんな議会言葉で答えるなんて・・・」と妻からは悪評ふんぷんであり、怒りに火を注ぐことになったり、苦笑されたり。私にとっては、これも職業病のたぐいなのだが・・・・。 議会言葉が美しい、正統的な日本語になれば、議会も変わるのではないか。民主主義は言論によって成り立っている。その際に使用される言語が、あまり使いたくない日本語だったり、ふつうの人には理解しずらい言語だったりしたのでは、ほんものの民主主義は育たない。 どうだろうか。今度、宮城県議会の議事録というのをご覧になっていただいたら。それを読み通す根気があればのことであるが、日本語についてのさまざまな論点がみつかることだろう。
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