![]() 月刊ガバナンス平成28年3月号 「政治とカネ」、なくならないワケを探る 甘利明経済再生相は1月末、週刊文春が報じた現金授受疑惑について、自分自身と秘書の現金授受を認めて経済再生相を辞任した。 週刊誌に持ち込まれる告発は、めずらしい。表に出ないケースが多数ある。「浜の真砂は尽きるとも、政治にカネの『種』は尽きまじ」というのが実態ではないか。 その種明かしを試みる。政治家の行為ではなく、その存在がカネを呼ぶというのが、私の仮説である。政治家の関わる贈収賄のケースでは、政治家側は贈賄側に何らかの便宜を図るという具体的行為がある。これには罪の意識が伴う。 一方、今回の甘利氏の事件は、口利きであり、直接便宜を図ったわけではない。だから、甘利氏側に、金銭受領に伴う罪の意識は希薄である。甘利氏側には、「現金を渡すほうが、大臣・国会議員という身分が持つ力に勝手に期待している」という思いがある。パーティー券を買ってもらうのと変わらないという意識ではないか。 いることでもらえるのが役得、することでもらえるのが見返り。見返りでカネをもらうことは罪だが、役得は罪ではない。少なくとも、もらう側に罪の意識は感じられない。 他の例もあげてみよう。大蔵官僚に対する銀行の大蔵省担当者(MOF 担)の過剰接待が問題になった。接待を受ける側の官僚の心情を忖度すれば、接待は大蔵官僚という身分に対する敬意ないしは漠然たる期待の表れであり、贈収賄ではないというものである。だから罪の意識がない。こういう接待を頻繁に受けているという慣れが、罪の意識を摩滅させる。「俺は偉いんだ」というエリート意識が、接待を受けるのは当然という意識につながる。 私自身の体験。厚生省の役人として被接待側、宮城県知事として接待側、その両方を務めた「官官接待」も同様の図式である。接待をする自治体側は国の役人に具体的要望をするものではない。問題は、霞が関の役人側が「接待されるのは当たり前」という感覚でいることである。高級官僚が関係筋からお中元やお歳暮をもらうのも同じこと。接待も贈答も、今や、厳しい規制で下火にはなっているが、その背景は変わっていない。 政治家のカネに話を戻そう。政治家の行為ではなく、その存在がカネを呼ぶというのは、官僚の場合と変わらない。金銭受領があっても、それは自分が何かをしたことの謝礼ではなくて、大臣・国会議員たる自分の身分に対する敬意と漠然たる期待のしからしむるところであって、決して収賄ではない。政治家も秘書も、そう認識していることが「金銭受領や接待は、自分の身分としては当たり前」という意識につながる。これでは「政治とカネ」の問題はいつまで経っても解決できない。 「政治家はカネとの親和性が高いもの」という性悪説に立たざるを得ない。大事なのは、制度である。政治資金規正法、あっせん利得処罰法はあるのだから、その執行の厳格化が求められる。検察特捜部の奮起を期待したい。 今回は、週刊文春のスクープが発端だったことを考えれば、マスコミの取材能力への期待も生まれる。関係者からの内部告発の勧めも考えなければならない。
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