浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

月刊ガバナンス平成25年11月号
続アサノ・ネクストから 第38

教育委員会の独立性

 中央教育審議会で、教育委員会制度の見直しの議論が進行中である。年内に結論を得て、来年の通常国会に関連法の改正法案提出の予定である。いろいろ論点はあるが、ここでは、教育委員会の知事首長)からの独立性の問題について考えてみる。

 この問題を改めて考える契機は、全国学力テスト(学テ)の結果公表をめぐっての川勝平太静岡県知事と県教育委員会との対立である。川勝知事が、学テの成績下位の100校の校長名を公表するとしたことに対して、教育委員会側は「それはだめ」と対応した。

 ことの発端は、学テの「国語A」の成績が全国最下位など、静岡県の成績が非常に悪いことに、川勝知事が危機感を持ったことにある。「この結果は先生に責任がある」として、校長名を公表することにより「反省材料にしてもらう」と発言した。これは川勝知事の勇み足である。なぜか。

 1961年に学テが実施されたが、4年で中止となった。その理由が学テ反対運動に関する訴訟での1976年5月の最高裁判決に示されているので、その一部を引用する。「中学校内の各クラス間、 各中学校間、更には市町村又は都道府県間における試験成績の比較が行われ、それがはねかえって成績競争の風潮を生み、教育上必ずしも好ましくない状況をもたらし、また、教師の真に自由で創造的な教育活動を畏縮させるおそれが絶無であるとはいえない」。この判決は学テそのものを否定しているものではないが、結果の公表がもたらす弊害について述べている。教育委員会が学テの成績下位校の校長名公表に反対したのは、文部科学省のマニュアルにあるからだけでなく、ここでいう公表の弊害を認識しているからだろう。

 川勝知事が学テの成績下位の校長名を公表したがったのは、「反省材料にしてもらう」の言葉でわかるように、「成績上げろ」と叱咤し、次回の学テでの成績向上を計るということだろう。ここからは私の邪推になるが、川勝知事の気持ちの中には、静岡県の教育水準向上への願いもあるだろうが、「最下位が悔しい、恥ずかしい」というのも大きいのではないか。

 知事は生身の人間である。選挙で選ばれる政治家であるから、勝ち負けを意識し勝ちである。一方、教育委員会は「悔しい、恥ずかしい」という人間的な感情を持つ主体ではない。私の知事時代を思い出すと、各種分野で、他県に劣後することに悔しさを覚え、担当部局を叱咤激励したものである。

 しかし、教育の分野は、「勝った、負けた」と他県と競争するのになじまない。教育の成果は単純に数量化できない。数字より教育の質、内容が問われる。学テの結果公表の適否は、学テとは何か、教育に占める学テの位置づけはどうかということに関わる。学テを教育オリンピックにおける競争の場とみなす意識の強い知事と、教育全般の質の向上のほうに意識がいく教育委員会という図式が思い浮かぶ。

 教育委員会の知事からの独立性の問題を考える際に、教育分野におけるそれぞれの立ち位置と行動性向に違いがあることを重視しなければならない。私の結論は、独立性は維持すべしである。


TOP][NEWS][日記][メルマガ][記事][連載][プロフィール][著作][夢ネットワーク][リンク

(c)浅野史郎・夢ネットワーク mailto:yumenet@asanoshiro.org