浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

月刊ガバナンス平成20年11月号
アサノ・ネクストから 第33

「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」その2

 厚生労働行政在り方懇談会についての続きである。困ってしまった。福田首相が、突然の辞任会見を行い、その後、麻生新政権が発足した。舛添厚生労働大臣は留任したが、今度は、解散・総選挙である。政権が変わるかもしれない。そんな中で、在り方懇談会はどうなるのだろうか。

 こんな状況だからこそ、懇談会そのものを、改革実践の現場としてしまえばいいではないか。各委員が、厚生労働省に対して、生資料を要求することが、その具体策である。

  「生」に意味がある。各種審議会で、「こういうデータを」と委員が要求すれば、次回の審議の場には、資料が役所から出てくる。しかし、それは生資料ではなくて、役所の手で加工されたものである。役所の作った資料は、生資料とは、微妙に違う。

  生資料には、役所にとって都合の悪い情報、過去の説明と矛盾する情報、外に知られたくない情報が含まれている可能性はある。また、普通の審議会では要求されないような資料、たとえば、ある局、ある課の職員の出勤簿、出張命令、使用済みタクシー券の半券を一括して要求したら、どうなるだろうか。こういった資料の中身から、新しい議論が展開されるかもしれない。「そういった資料はありません、出せません」といった反応があった場合には、「なぜ、どうして」という突っ込みがあり得る。

  情報公開は、それをすること自体が、組織への信頼感を獲得するゆえんである。いやなものでも出すのが情報公開。いいところだけ出すのは、広報である。厚生労働行政への信頼感が崩れたのは、結局のところ、真摯な情報公開がなされなかったこと、つまりは、役所という密室の中だけで、問題が処理されたことが原因であったことを忘れてはならない。

  「厚生労働行政の遂行にあたって、情報公開は必要だ」というのは当然だが、ここで強調したいのは、懇談会の在り方、役割である。いずれ、この懇談会から、何らかの報告書は出される。どれだけ衝撃度の高い報告内容を提出できるか、疑わしい。画期的な報告内容になったとしても、それが、そのまま実施される担保はあるのかとなると、これは、もっと疑わしい。現下の政治情勢では、そう思わざるを得ない。

 だとすれば、冒頭に書いたところに戻ってしまうのだが、この懇談会の場自体を改革実践の場とすることの意味は大きい。懇談会での対応そのものが、役所の改革意欲を試す試金石とも見られる。役所がいやがる、むずかしい情報開示を迫って、それに役所がどう対応するか。その対応自体を問題化することもあるし、開示された情報から、衝撃的な問題指摘に発展することも十分考えられる。

 ここまで書いて、大きな責任が自分にかかってくることに気がついた。委員こそが改革の担い手であるという認識である。傍観者、評論家ではなくて、プレイヤーになるということである。どれだけ真実に迫る情報開示請求をすることができるか。開示された情報を武器にして、本質的な改革論議を展開することができるか。私を含めて、一人ひとりの委員の力量とやる気が問われることになる。