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月刊ガバナンス平成20年2月号
アサノ・ネクストから 第24

地方議会のありかた論

 「町議会がなくなって困りますか」の質問に、きちんと答えられる町民はどれだけいるだろうか。答えられない町民が悪いのではない。存在意義を示しえない議会のほうが悪いのかというと、そう単純でもない。

 地方議会の活動ぶりが、住民に伝わらないことが問題なのだろうか。議会が広報に力を入れればいい。議員自身の伝える努力が必要である。私の教えている大学の地方自治論のレポートの出題に対する答にこの種のものが多かった。

 議会の首長に対するチェック機能が果たされていない。夕張市が財政破綻に至るまでに、夕張市議会はどんなチェックをしたというのか。議会は唯一の立法機関なのに、議員提案の条例成立がほとんどないなど、議会本来の役割が果たされていない。議会活動そのものへの、こういった批判も浴びせられている。原因としては、議員個人の努力不足とか、議会の認識不足もあるだろうが、もっと本質的な原因がある。

 そもそもが、日本のそれぞれの地方議会は、その地方の住民の血と汗と涙で、勝ち取ったものとは言いがたい。イギリスの議会開設の歴史を見よ。わが国の国会にしても、明治維新後の自由民権運動の中で、藩閥政権に対抗した先人たちの血みどろの努力の産物である。地方議会は、その地域の住民の努力が築きあげたという歴史を持っていない。できた後から存在意義を議論するという、おかしな現象が見られるのは、こういった経緯による。

 戦後、官選知事から民選知事への変革はあっても、政府とすれば、知事へのコントロールを確保しながら自治体運営をさせるという発想が強かった。県の仕事の中で、機関委任事務の範囲がかなり多かったことが、それを表している。その流れの中では、県議会は、単に知事の決定を承認する機関として位置づけられる必要があったことは、容易に理解できる。

 地方分権の流れの中で、こういった地方議会の位置づけは、根本から見直される必要がある。政策は知事部局から発出してくるもの、議会はそれを単にチェックするだけという発想は変えるべきである。むしろ、制度的には条例制定権、実質的には地域住民に密着した日常活動を武器に、執行部に政策をつきつける、政策形成のライバルとしての存在感を示すべきである。

 たとえば、地方議会が、ある施策の充実を図るために、住民税を引き上げる提案をしたらどうだろうか。税の引き上げだから、大いに住民の関心を集める。その案への各議員の対応ぶりをよく見て、次回の議員選挙で誰に投票するかを決めようとするだろう。議会への関心が高まることまちがいなし。

 地方自治体への権限の委譲、そして三位一体改革による地方財政自立改革は、地方自治体に大きな自由度をもたらす。それは、首長の自由度拡大にとどまらない。地方議会が関与する政策決定の自由度を広げることにもなる。それで初めて、地方議会の存在意義は大きく高まるのである。地方議会のあり方をめぐる議論の行き先には、こういったこともあることを踏まえて、地に足がついた議論をすべきである。


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