「厚生省同期会」
来年の1月、つまり21世紀になってすぐに厚生省がなくなる。中央省庁の再編ということで、厚生省は労働省と一緒になり、その名も「厚生労働省」になるらしい。厚生省に23年と7ヶ月奉職した私としては、感慨がないこともないが、別に寂しいとか悲しいとかいうものでもない。
大学時代は劣等生の私であった。その上に、大学後の就職については、確固たる考えをもてないまま就職時期を迎えてしまったような気がする。
いわゆる「民間会社」もいくつかあたってみて、面接である程度の誠意と熱意を示した会社からは「採用内定」もあったが、私自身の気持ちは全くすっきりしなかった。そんなこともあって、よし、ここは一番、公務員にでもなってやるかと思い定めたのだが、そのきっかけが何であったのか、いつだったのかは思い出せない。ただ、「俺、公務員試験受ける」といったら、「えーっ、浅野、おまえがー?」とn反応を示した同級生がいたのは覚えている。おまえなんて受かるわけないということなのか、おまえなんて全く公務員向きでないということなのか、その真意は今に至るも不明。
ともあれ、「受かるはずもない」試験を受けたが、不合格を決め込んで、ふるさとの仙台の家でひっくり返っていた夏休み。合格通知が舞い込んでやおら東京に舞い戻り、全く遅ればせの省庁訪問をする仕儀となった。
タイミングの遅れもあり、また成績芳しからずもあり、あちこちの省庁に行くことは不可能な状況であった。そこで足を向けたのが厚生省。「なんで今頃のこのこやってきたのか」と、人事課でいぶかられながらも、簡単な面接をしてくれて、そして採用を決めてくれた。
すでに15人の採用は決まっていて、私は16人目ということを知るにつけ、こんなに遅くに来たのに、しかもこんなに成績も態度も悪いのにと不可解であった。不可解であったが、うれしかった。採用の理由は、今に至るも不明。不明であるが、ラッキーであった。そのラッキーさは、今につながっているとありがたく思っている。
そんな経緯で、厚生省の事務係キャリアとして入省することに決まったのが、昭和44年の夏のこと。大学紛争の余波で、卒業試験が終わったのが昭和45年の3月31日だったと記憶している。翌日から、晴れて厚生省の職員としての社会人生活が始まった。
そのとき初めて顔を合わせた昭和45年組の「同期」の仲間が16人よその省では、在学中に先輩から何度も歓迎会などをやってもらっているらしかった。だから、同期同士はとっくに顔なじみになっている。「厚生省はちょっと冷たいんじゃないか」などと、採用の際の感謝の念など忘れたかのように恨み節の私であった。
それにしても、16人という入省者は、厚生省にとっては記録的に多い数であった。前年度は10人、その前は1桁が続いていたので、確かに異例に多い。その中で、私が16番目と思えば、あの採用時の幸運さにいやでも考えが及んでしまう。
この16人がともに受けた一ヶ月の初任研修の様子が、30年経った今になっても、はっきりと思い出されるのはなぜだろうか。会議室での講義形式の研修のほかに、厚生省関係の各種施設の視察が組み込まれていた。視察で訪れた施設で、重症心身障害児に会った際の衝撃も忘れられない。そのときに私の胸に生じた疑問への答が出たのが、それから15年後に、今度は「プロとして」障害福祉の仕事に私が初めて取り組んだ時だった。
この初任研修の印象がとても強く残っていることもあり、知事になってから何度か、後輩の新入生のための講師を務めさせてもらった。昔日の自分たちの姿を思い出しながら、公務員としての心構えを一生懸命に語りかけたものである。
それはともかく、あの頃の16人の同期の顔かたちや、話しぶりなどは今でも目と耳に焼きついている。あたりまえかもしれないが、おとなしい奴は、今でもおとなしいし、お茶目な奴は今でもお茶目。弁護士になるために、早い時期に厚生省を離れたのが3人いる。一番有能で頼れる男が、ガンで亡くなった。やめて知事になったのもいる。
入省後の1年はほぼ毎月、その後もかなりひんぱんに同期会を開いていた。その際の幹事役は常に私。私が仙台に戻ってからは、現在児童家庭局長の真野章君が幹事をしてくれている。1年に一回は開催しているが、毎回10人近く集まるのがうれしい。
その真野君は、約17年前、渡部恒三厚生大臣の際の秘書官である。そのときに政務の秘書だったのが、佐藤雄平さんであり、我々と同年ということで、同期会の準会員として毎回参加してもらっている。その佐藤さんは、平成10年の参議院選挙に福島県から立候補して当選を果たした。
厚生省以外も含めて、局長級で7人ほどが現役で残っているが、4,5年も経てば全員が退職ということになるだろう。そうなっても、同期会は続く。あの30年前に戻って、いつまでも若々しい付き合いをしていきたいと思っている。